【テーマ・しゃかい】


「心を鬼にしてください。」

そう職場で言われました。

久しぶりの仕事復帰に当たり
ほんとうは十分な就活や
いまのわたしにも続けられるよう
十分な吟味をしたかったのですが

背に腹はかえられぬ経済状況もあり
以前に経験のある職種につきました。

ノルマの課せられた
数字を追いかける必要のある仕事です。

古くからあるような
伝統の香りのする仕事ではなく
高度に発達した文明の利器なくては
成り立たない仕事です。

ひととひととが
あたたかいふれあいのなかで
意思を伝えあう機会を放棄し

コミュニケーションという
新しい言葉を以て意志疎通を
試みるようになったからこそ
成り立つような仕事です。

健康や経済
将来の不安を煽られるから
成り立つような仕事です。

ひとが頑なに守りたい
ほんとうに大切であるものが
個人情報という造語に
取ってかわられたからこそ
成り立つような仕事です。


わかっていました。


いつ
どんなときに
どのようにして

わたしのこころが
壊れていったのか

よくわかる仕事です。


「心を鬼にしてください。」

わたしのために
あえてそのように
よかれと思って
言ってくださるのです。

言葉のあやなのです。




ひとは鬼にはなれません。

なれないものに
なろうとしては
いけません。

上司のかたが
言わんとしてる本心を汲みながらも

わたしは
こころを鬼にはいたしません。

できません。

わたしはひとです。
鬼ではありません。


ひとがひとであるために
鬼が存在するのです。

ひとに生まれた以上
どんなことが起ころうと

こころを鬼にしようなど
二度と思ってはなりません。

誰のためにもなりません。


こころを鬼にして働くひと。
こころを鬼にして叱るひと。

わたしたちは鬼にはなれません。

なれないものに
なろうとしてはいけません。

いまのわたしが
いまのあなたが
壊れてしまいます。







【テーマ・そうさく】


ぼくのてのひらに
握りしめられていたはずの
透明なビー玉は
いつのころからか
姿を消してしまっていた。

そのことにぼくは
もっとびっくりしていいはずで
もっと不思議に思っていいはずで

それなのにぼくは
ビー玉を握っていたことも
ビー玉がいつのまにか消えたことも
どちらもわかっているのに

ふたつの記憶を交互に見比べて
その間にあるはずの関わりには
少しも注意を払わないんだ。

ふたつの記憶の間にあるもの。

それがぼくの薄明かりの世界を
かき乱し台無しにしてしまう。

ぼくはからになったぼくの
てのひらを眺めながら

暗がりのなかでは
てのひらですらなかった
ぼくのてのひらを眺めながら

ふたつの記憶の間にあるものを
薄明かりのなかから追い出して

しまいには
この薄明かりのなかの
いまこの瞬間に唯一
わかっていることだった
ビー玉の存在さえ

ふたつの記憶の間の闇に
放り投げようとしている。

あの暗がりではない
もうひとつの別の闇。

ぼくがつくりだす
もうひとつの闇の方だ。






「その通りです。
あすこに行きさえすれば
もう闇しかないのですから。」

ぼくの右隣では
分厚い外套に包まれた
背の高い男のひとが
いままさに椅子にかけるところだった。

「生きたものの赴くところではないと
父が申しておりましたが。」

男のひとが座ると
冷たい匂いがふわりと
ぼくの右の頬に届いた。

雪だ。

この男のひとはいままで
きっと雪のなかを歩いていたんだ。

「しかしあすこは
生き死にの関わりなくみなが
かならず最後に赴くところです。

形あるものないもの
心あるものないもの
すべてが最後に赴くところです。」

男のひとはどのくらい
長い間雪のなかを歩いたのだろう。

男のひとはもう
雪のそれと変わらないくらいに冷えて
もしかしたら雪ならば溶けるほどの
温かさに触れてみても
もう少しも変わらないくらいに冷えて

ぼくはぼくの右隣にいるのは
生き死にの関わりのない
形あって形のない
心あって心のない

男のひとの言う
最後の闇そのもののように思った。

「父はわたしを怯えさせて
そこに近づかぬよう戒めたのです。

あたかもそこに行けば
ひとは死すものであるかのように表し
父はわたしをそこから遠ざけたのです。

しかしその父そのひとが
その闇のなかに赴いていくのを
わたしは見ていたのです。」

ぼくは男のひとの分厚い外套の
内側で包まれているはずの身体を
少しも想像できないことに怯えながら

もしかしたら外套の内側には
もう生き死にの区別も
形の区別もなにも
なにもないものが隠れているような
そんな気がしてきた。

生き死にの区別もない
形も心もないそんなものが
どうしてあると思うのだろう。

しかも男のひとの分厚い外套のなかに
それがあるのだろうなどと
どうして思っているのだろう。

「生きたものの赴くところでなければ
死んだものの赴くところかと
初めはお思いになるでしょう。

ところが父は死んではおらぬのです。

父は生きたものの赴く場所ではないのに
父は死んでもおらぬというのに
その闇のなかに入って
二度とは戻っては来ぬのですよ。」

もしもほんとうに
この男のひとが闇そのものなら

ぼくには男のひとの
お父さんの行方が
わかるような気がした。

ぼくはますます
分厚い外套のなかが気になった。

雪ならば溶けるほどの温かさにも
このひとはびくともしない。

男のひとはどこまでも冷えていた。

「あすこに行きさえすれば
もう闇しかないのですから
姿のないのも命のないのも
なんの関わりもないのです。

なんの関わりもないものは
二度とは戻って来ぬのです。

生きても死んでもいない
すべてのものが最後に赴くところです。」

男のひとはその闇が
男のひとの外套のなかにあるのを
きっと知らないんだ。

その闇をぼくがつくりだしたように
同じ闇を外套のなかに包んでいるのに
男のひとは知らないまんま
決して溶けない雪のなかを

いまもずっと歩いているんだ。

ぼくはどうだろう。

ふたつの記憶の間にある闇のなかに
ぼくが追い払おうとした
ふたつの記憶の間にあるものは

ビー玉を失ったかなしみ?
確かなものが不確かになった
ぼくの困惑と動揺と不安?


「生き死にの関わりなくみなが
最後に赴くのです。
そうでなければならないのです。」

そう言って男のひとは
薄明かりのなかから
姿を消していったけれど

彼の赴く闇というのは
分厚い外套のなかではなく
ほんとうはあの
暗がりのほうなんだろうと

ぼくは少し
羨ましく思っていた。