【テーマ・ほけんたいいく】


子どものころから
見た夢をよく覚えていて
ふとしたときに
思い出すことがよくありました。

とても怖かったのを
よく覚えています。

夢の記憶というのは
ほかの記憶と少し取り扱い方が違っていて

たとえば見覚えのある風景に出会ったとき
そこが「実際に訪れたことのある場所」であるのと
そこが「夢で見たことのある場所」であるのとでは
こころの揺さぶられ方が違うのです。

厳密には夢をみるということも
人間のほかの行いとなんら変わるところなく
「夢をみる」という実体験であって

夢の内容の記憶もまた
昨日食べた夕食の献立の記憶と
なんら変わるところはないはずですが

目の前に昨日と同じおかずが並んだとき
「なんだ昨日と同じじゃないか!」というのと
「なんと夢と同じじゃないか!」というのとでは

こころの揺さぶられ方が
まったく違うのです。

これは

夢も現実もどちらも
本来、自分の意志で
どうにかなるものではないのに

現実の実体験は自分の意志によるもので
夢にみる内容は自分の意志によるものでないと
どこかで思っているからこそ
起こってくる現象です。

夢と現実を分け隔てて
扱い方を違えているから
起こってくる現象です。

だからわたしは
悪夢にうなされ
正夢におののき
ときには夢を見ることさえ
苦痛に感じていたのです。



けれども
夢もまた生体反応であり
自分の体験のひとつですから

夢の記憶も現実の記憶も
同じ体験の記憶といえます。

毎日毎朝目覚めのあとに
みた夢の反芻をしていると

昨日実際に食べたものも
夢のなかで食べたものも
わたしのなかで同等に記憶されて

たとえ今晩同じおかずが
食卓に並んだとしても
あまり驚かなくなるのです。

正夢だとか予知夢だとか
特別扱いしなくなってくるんです。

そうすると
夢を見ることが
苦痛ではなくなります。


ひとつだけ
夢の記憶と現実の記憶の違いが
あると思うのですが
それは時系列に関する扱い方です。

現実の記憶というのは
時間の流れに対して不可逆で

それは現実の記憶を構成する要素が
実在するものである以上
どうしても時間に沿って老朽したり
一定の法則をもって変化することが
当たり前になっているからです。

一方、夢の記憶というのは
時間の流れに支配されることがなく

実体のあるなしに左右されないもので
構成されているので
原因よりも結果が先に現れたり
誕生してもいないものが死んでしまったり
遠い過去の風景を見られたり
遥か未来のことを知り得たり

それが全部
夢という体験として記憶に残ります。

なので、時系列にこだわってしまうと
夢というのはいかにも不思議な
実体験とはおよそかけ離れた
自分の意志ともかけ離れたものに
思えてきてしまうのですが

ほんとうは夢というのも
わたしの行いのひとつなのです。


夢の記憶と現実の記憶を隔てる
垣根を取り払ってしまうと
悪夢は悪夢と思えなくなり
まして正夢に怯えることもなくなります。

悪夢にはたいてい
現実に思い当たるふしがありますし
正夢にはたいてい
すでに現実がそのようになっていることに

なんとなく気づくときがあるものです。

そんなときこそ
夢と現実を分け隔てせずに
どちらも自分の記憶であると
公平に取り扱うことができれば

夢と現実は
わたしという現象でつながり

世界がぐんと近くなるような気がします。


夢の記憶だけでも不完全で
現実の記憶だけでも不完全で
確かに別々のものであるのだけれど
それがふとしたときに
自分という次元で繋がったとき

なにかが完成するような
そんな気がしているのです。













【テーマ・おんがく】


バッハのインベンションは15曲あり
なんとなく無作為に順不同で練習していて
いまはちょうど8曲目になります。

道のりの半分まで来たところです。

子どものころ
何年もかけて歩んだ道のりを
もう一度たどり直しているのですが

ほんとうに同じ道なのか
ほんとうに同じ曲なのか

わからなくなるときがあります。

ところどころに
書き込みや印のつけられた
懐かしい楽譜に向かいながら

あのころと同じ曲を
あのころとは違う音で
おさらいをしています。

上手い下手ではなく
好きか嫌いかでなく

そうかそうだったのかと

新しい再発見と
古い新発見とを

奏でているような気がします。


できればこのまま
インベンションを弾き続けて
15曲を全部たどり終えたら

道半ばで途切れてしまった
シンフォニアまでたどり着きたい。

いまはそう思っています。

苦しかった三声も
いまなら歌える気がします。



すこし欲張って
ベートーベンのソナタも
練習してみています。

こちらは一生かかっても
全曲弾くことなど出来ませんが

歩いたことのない新境地

死ぬまでこの道を歩んでいたいと
思わせてくれる曲ばかりです。

若いころはショパンが好きで
いまでももちろん大好きですが

新しく始める曲が古典なのも
いまはそういう気持ちだからなんだと
思います。


再びピアノを弾くまでには
高いハードルがありました。

そのハードルを前にして
「死ぬまで弾くことをやめない」
という半ば無理やりだった決心は

「死ぬまでずっと弾いていよう」
という希望へと
ゆるやかに変化しようとしています。


歩みたい未来に
歩むべき道がある。

その道は遥かむかし
まだ子どものわたしが
すでに歩み始めていた
同じ道であったのです。

迷子になって泣いていても
わたしの両足はちゃんと
その道を踏みしめていたのですね。


8曲目は5番です。

第一音のトリルが
わたしの背中を押してくれます。









【テーマ・かていか】


三年くらい前から
我が家の電子レンジは
ご機嫌ななめです。

機能を選んだり
タイマーを設定するダイヤルが
すこし壊れかけていて
根気よく回していれば
そのうち意に叶った設定ができるのですが
最近ではすっかり
合わせるのが困難になりました。


わたしの人生のなかで
初めて電子レンジに出会ったのは
わたしが小学生の頃だっと思います。

テレビよりも大きな代物で
台所の一角をふてぶてしく
占領しておりました。

あれからわずか数十余年。

ふたりの子持ちになったわたしに
電子レンジはなくてはならない
強力な助っ人だと思っていました。

限られた時間のなかで
複数のおかずを料理するには
確かに助かる機械でした。

解凍からあたため、調理まで
機能をフルに活かせる自分は
ツカエル自分だと思っていました。

いわゆる冷凍わざを駆使し
時短に命をかけていました。

電子レンジは
強い味方でした。



それがいまでは
ひょっとしたら
なくてもいいくらい

使わなくなりました。

もちろん
機能が壊れかけていることが
直接の原因ですが

なくても大丈夫なんです。



ずいぶんむかしに
アメリカである女性が
シャンプー後の飼い猫を
電子レンジで乾かそうとして
死なせてしまった事件を
なにかで知りました。

たぶんわたしはそのころから
電子レンジのことが怖かったのです。

けれども日々の忙しさを理由に
その気持ちに蓋をして
便利に使いこなしている自分を
過大に評価し演じていました。

電子レンジは
生き物を殺せる道具なのです。

鳥や豚の屍肉を辱しめ
瀕死の野菜の息の根を止める
そんな恐い道具だったのです。

それでもわたしは
機能が壊れさえしなければ
いまでも便利に
電子レンジに頼っていたに違いありません。


解凍は冷蔵庫で時間をかけて
するようになりました。
自然解凍ができないものは
冷凍しなくなりました。

冷凍食品はよほどでなければ
買うこともなくなり
あんなにいっぱいだった冷凍庫は
いまはスカスカになりました。

ごはんは一度にたくさん炊いて
レンジでチンするほうが
電気代の節約になると言われて

なるほどそうかと思っていましたが

おにぎりやいなり寿司にしたり
炒めご飯やお粥や雑炊にすれば
電子レンジがなくても大丈夫でした。

あたためだけなら
たいていのものは
蒸せばなんとかなりました。

発泡トレーに入ったお惣菜は
まるごと蒸すわけにはいかないので
買わなくなりました。

以前は冷凍していたものは
塩漬けやオイル付けにして
保存方法を変えました。

なにより
買いだめをしなくなりました。


まったく使わないわけではありませんが
あまり頼らなくなったように思います。


場当たり的な献立はできなくなったので
よくよく考えて調理をするようになりました。

臨機応変の幅は狭まりましたが
そのぶん我慢するようになりました。



壊れたまま
修理もしてもらえない
電子レンジにとってみれば

わたしに裏切られたと
感じているかもしれません。

彼にしてみれば
望んで買われ酷使され
わたしとの完全なる合意の上で
数々の殺戮を繰り返してきたのです。

いまさらわたしが
マイクロ波の危険性に
気づいたからといって

共に犯した罪を
なかったことにはできません。


もう少しお金が貯まって
もし修理が可能であれば
直したいとは思っています。

正直に
「なくてもいい」とは
言えないのです。