【テーマ・きゅうしょく】
お湯を沸かすという作業が
台所におけるあらゆる作業の
要になっていたとは
ついぞ気づきませんでした。
いまわたしの一日は
お湯を沸かすことから
始まっています。
習慣といってしまえば
あまりに味気なくもったいない
ほとんど儀式のようのなものです。
朝わたしの身体に入るのは
このお湯か
このお湯でいれたお茶になって
もうずいぶんになります。
朝御飯というと語弊がありますが
わたしにとっては
朝御飯のようなものです。
わたしから朝御飯という習慣が
跡形もなく消え去ったのは
たぶん高校生くらいのころでした。
お昼のお弁当さえも
勇気を出して
母に作ってもらうのを断り
母にはわたしの食生活への
介入を諦める様子が見てとれました。
以来わたしには
朝御飯を食べようという
気持ちは一切起こらなくなりました。
それは子どもと一緒に暮らし
子どもの朝御飯を用意するようになったいまも
変わることはありません。
けれどもわたしは
自分のその気持ちに自信が持てず
「食べるべきものを食べない」という
自罰的な考えに支配され
「朝御飯をしっかり食べよう」と
学校で教わってくる子どもたちに
悪びれることしかできませんでした。
子どもといっしょに
食卓を囲むことが大切なのに
わたしは夕食も
さして食べることはありません。
そのことに負い目を感じていました。
わたしにとって調理という作業は
わたし自身の食生活とは
完全に一線を画した
独立した「しごと」であり
それは長年わたしを
無意識に苦しめてきました。
食事という日常が
わたしの過ごしてきた環境や
わたしの心身の健康状態や
子どもの成長と複雑に絡み合い
数々の場面において
矛盾として現れていたからです。
飽食の時代に生まれ育ち
食べるものを選ぶ能力が問われるなか
栄養のバランスを考え
きちんと食べようという
考え方そのものは間違っていません。
間違っているのは
その考えに振り回され
自分の在り方を見失った
わたし自身だった。
幸いわたしは数年前に
食べない=よくないこと
という固定概念を
やさしくとかしてくれる
機会に恵まれました。
顔を上げてあたりを見渡せば
現代人の食べ過ぎに
警鐘を鳴らしているひとは
いくらでも存在しました。
気をつけて本屋を巡れば
わたしを勇気づけてくれる
書籍もたくさん存在しました。
それらしい情報に支配されやすい
わたしが何年もかけて出した答えは
未だかたちにならない
漠然としたものではあるけれど
長めに沸騰させて
すっかりカルキの抜けた水が
こんなに美味しいと
感じられるようになったこと
それがひとつの
答えのかたちであるのかも
しれません。
作ってくれたひとのために食べる。
食べてくれるひとのために作る。
その当たり前の向こう側には
自分が生きるために食べるという
いま考えうるもっとも当たり前の
事実が厳然と横たわっていました。
みなさん
お湯を飲まれるときは
少しガスが惜しい気もしますが
しっかり沸騰させてみてください。
それも立派な調理です。
そして立派な儀式です。
それはわたしたちに
勇気と自信を湧かせてくれます。
自分に正しく行ったあとの料理は
誰が食べても美味しいものだと
いまは娘と息子が教えてくれます。
お湯を沸かすという作業が
台所におけるあらゆる作業の
要になっていたとは
ついぞ気づきませんでした。
いまわたしの一日は
お湯を沸かすことから
始まっています。
習慣といってしまえば
あまりに味気なくもったいない
ほとんど儀式のようのなものです。
朝わたしの身体に入るのは
このお湯か
このお湯でいれたお茶になって
もうずいぶんになります。
朝御飯というと語弊がありますが
わたしにとっては
朝御飯のようなものです。
わたしから朝御飯という習慣が
跡形もなく消え去ったのは
たぶん高校生くらいのころでした。
お昼のお弁当さえも
勇気を出して
母に作ってもらうのを断り
母にはわたしの食生活への
介入を諦める様子が見てとれました。
以来わたしには
朝御飯を食べようという
気持ちは一切起こらなくなりました。
それは子どもと一緒に暮らし
子どもの朝御飯を用意するようになったいまも
変わることはありません。
けれどもわたしは
自分のその気持ちに自信が持てず
「食べるべきものを食べない」という
自罰的な考えに支配され
「朝御飯をしっかり食べよう」と
学校で教わってくる子どもたちに
悪びれることしかできませんでした。
子どもといっしょに
食卓を囲むことが大切なのに
わたしは夕食も
さして食べることはありません。
そのことに負い目を感じていました。
わたしにとって調理という作業は
わたし自身の食生活とは
完全に一線を画した
独立した「しごと」であり
それは長年わたしを
無意識に苦しめてきました。
食事という日常が
わたしの過ごしてきた環境や
わたしの心身の健康状態や
子どもの成長と複雑に絡み合い
数々の場面において
矛盾として現れていたからです。
飽食の時代に生まれ育ち
食べるものを選ぶ能力が問われるなか
栄養のバランスを考え
きちんと食べようという
考え方そのものは間違っていません。
間違っているのは
その考えに振り回され
自分の在り方を見失った
わたし自身だった。
幸いわたしは数年前に
食べない=よくないこと
という固定概念を
やさしくとかしてくれる
機会に恵まれました。
顔を上げてあたりを見渡せば
現代人の食べ過ぎに
警鐘を鳴らしているひとは
いくらでも存在しました。
気をつけて本屋を巡れば
わたしを勇気づけてくれる
書籍もたくさん存在しました。
それらしい情報に支配されやすい
わたしが何年もかけて出した答えは
未だかたちにならない
漠然としたものではあるけれど
長めに沸騰させて
すっかりカルキの抜けた水が
こんなに美味しいと
感じられるようになったこと
それがひとつの
答えのかたちであるのかも
しれません。
作ってくれたひとのために食べる。
食べてくれるひとのために作る。
その当たり前の向こう側には
自分が生きるために食べるという
いま考えうるもっとも当たり前の
事実が厳然と横たわっていました。
みなさん
お湯を飲まれるときは
少しガスが惜しい気もしますが
しっかり沸騰させてみてください。
それも立派な調理です。
そして立派な儀式です。
それはわたしたちに
勇気と自信を湧かせてくれます。
自分に正しく行ったあとの料理は
誰が食べても美味しいものだと
いまは娘と息子が教えてくれます。