【テーマ・さんすう】


あるところに
四角形ABCDがありました。

点Pはあるとき、
頂点Aを出発して
頂点Bまで毎秒2センチメートルの
速さで動くことになりました。

……

こんな物語を
中学校の数学の教科書で
よく見かけます。

点Pは
与えられた使命を果たすため
ひたすら頂点Bを目指し
毎秒2センチメートルの速さで
懸命に旅をします。

その旅が
三角形ADPの面積を
刻一刻と変化させてることなど
点Pは知るよしもありません。

一次元に開かれた
直線をたどる旅。

あどけない中学生が
美しい直線のグラフを描くためには

点Pは疲れることも
休むことも許されません。

立ち止まることも
引き返すことも許されません。

零次元の点Pが
一次元を旅することで
二次元の三角形が変化して
三次元の中学生が
頭を抱えて悩んだりすることも

点Pには
まったく知るよしもないことです。



点Pは進みます。

頂点Aを旅立って
頂点Bにたどり着くその瞬間まで

ただひたすらに進みます。


その歩みが
何を生み出しているのかも
決して知ることはできないのに

その歩みが
異次元に新たな関係式を
生み出していることも
決して知ることはできないのに

点Pは進みます。




わたしも進みます。

時間に沿って
ただひたすらに進みます。

この時空を進むことで
異次元に何が生み出されているのか
わたしには
知るよしもありません。

わたしの歩みが
なにかを変化させているのだとしても
わたしには
知るよしもないことです。

ただわたしは立ち止まり
ときおり来た道を振り返り
疲れて休むこともあるでしょう。

頂点Bの存在に
おそれおののき
歩みを進めることが
できなくなるかもしれません。



点P、きみはえらい。

勇敢なきみの旅のおかげで
類い稀なる等式が導かれる。

美しいグラフが描ける。

中学生が笑顔になれる。


願わくは
もしも頂点Bにたどり着いたら
次は頂点Cを目指して
そして頂点Cからは頂点Dへ
それから頂点Aに戻ってきたら

また頂点Bを目指して
毎秒2センチメートルの速さで

永遠に……





いいえ、それはいけません。

そんなことは
永遠に繰り返しては
いけないことだと思います。


四角形ABCDは
ある立体の底面だから
点Pの冒険は
もう少し続くのかもしれないけれど

点Pには知るよしもないのです。


わたしのいのちが
どこまで続くのだとしても

わたしがなにを生み出しているのかも
わたしがなにを描いているのかも

わたしには知るよしもないのです。






【テーマ・どうとく】


世界には
自分の知っていることと
自分の知らないことの
二種類があるように思っていました。

実際に
知っていることは知っていること
知らないことは知らないことであり
だからどうしたということもなくて

ただそれだけのことです。


世界は広くて果てしない
まだまだ未知のものに溢れている

…と、思えるしまたそう思いたい。

でも、世界を
知っていることと
知らないこととに二分できるなら

世界は有限で果てがあるってことです。


わたしは
わたしの想像のなかで
世界には無限であって欲しいと
勝手な願いを押しつけておきながら

こっちは知ってる、
こっちは知らない、などと
できもしない分別を
できる気でいたんですね。


世界が無限で果てしないと思うならば
知ってることと知らないことに
区別はないように思います。



うーん。

理屈っぽい考え方はやめて
日常的なことで考えてみましょう。

昨日は覚えていたことで
今日は忘れてしまったことが
あるとします。

例えば
球の体積を求められる公式とか。

(昨日はできたのに
今日は解けない問題には
よーくぶち当たります…)


昨日の自分は知っていて
今日の自分は知らないこと。

これって
知ってることでしょうか、
それとも
知らないことでしょうか。

昨日の自分が審判なら
知ってるって言うでしょうし
今日の自分が審判なら
知らないって言うでしょう。

そういうピンポイント的な考えが
変だなと思って

時間的に連続した自分を審判にすると
知ってて知らない
知らなくて知ってる

知ってると知らないが
同居するような判定に
なりはしないだろうか。


今日知らないことも
明日は知ってるかもしれないし。


知ってることと
知らないことを
区別することに

何の意味があるのだろう。

けれどもやはり
現実的には世界には
知ってることと
知らないことの
二種類が存在していて

知らないことを教えられたり
知らないことを知ってることに
変えていくのが
いわゆる勉強なのかなとも思う。


そもそも
よくよく考えると意味があるのか
ないのかわからない
知ってると知らないの区別を

さも当たり前のように行うことは
たいへんストレスのかかることでは
ないかなと思います。

だから
いわゆる勉強というものに
思春期の子どもたちは抵抗(ストレス)を感じたり
何故、勉強しなくてはならないのかと
悩んだりするのかもしれません。



「何故、勉強しなくてはならないの?」

という中学生の子どもの素朴な疑問に
実際わたしはロクに答えることができません。

根本に、世界を有限にしてしまうという
矛盾にモヤモヤするわたしがいるので

一見良識っぽくて一般的っぽくて
当たり障りない答をいくら用意しても

まずわたしが納得いきません…



何故、勉強しなくてはならないか

その答を
知ってるか
知らないか

そう思うことが

できもしない世界の二分を
できる思っていることの
動かぬ証拠となってしまいます。


これは…

子どもと一緒に
悩むしかありませんね、もう…≧(´▽`)≦

【テーマ・りか】


誰かが見ている
そんな気がして

思わずぐるりと振り返った

けれどもそこには
だあれもいなくて

落葉がぐるりと舞っていた



視界の外から
誰かの視線を感じて
おや?と思うことがありますね。

ふと振り返ると
実際に友人がこちらに
手を振っているときもあるし

おどろいて振り返っても
人気なんか全然なくて
なんだかぞっとするときもある。


そもそも
見えるという現象は

ある物体に光が反射して
わたしの眼球に入ったきだけ起こります。

水晶体がとらえた光を
ナニかがどうかしてどうかなって
視神経を通り脳の視覚野にたどり着き

またナニかがどうかしてどうかなって
馴染み深い「見える」「見えてる」
という状態にたどり着きます。

その間
光が物体に当たってから
「見えた」と認識するまでの
ほんの僅かな時間でしょうが

ほんの僅かでも時間がかかるのだとしたら

わたしはいつも
「いま」よりほんの僅かだけ
過去を見ていることになるのでしょう。

この瞳を通じて見えるのは
いつもほんの少し過去の景色。

五感すべてにいえるのならば
わたしはいつも
「いま」よりほんの僅かだけ

過去を生きているのかもしれません。





間に合わなくて
ごめんなさいね

逢えなくって
ごめんなさいね

けれどそこから
わたしを呼んでくれていたこと

あなたがそこに
わたしを見つけてくれていたこと

ほんとはわたしも
知っていたって

あなたは知っていますよね

そう信じていいんですよね