【テーマ・ほけんたいいく】


夢をみながら
ああ、これは夢だと思い
そう思った瞬間から
その夢から
わたしは興味を失う。

夢だと気づかず
みているあいだも
夢だと思っていないのだから
はじめから興味はない。

不思議なことに
夢だと知った瞬間に
なかったはずのものが
あたかもあったかのように
ふわりと失われる。

ないものを失う。

ないものを失って
喪失感だけを手に入れる。

こころは
新たなものを抱えたはずなのに
何かを失ったとだけ感じている。


そうやって
繰り返す夢から
意識を遠ざけ護ってきた。




いまはもうない古い商店。
暗い店内で懐かしい顔を見つける。

かつての同級生との
予期しない再会に
動揺しながら話しをしていると

ひとり、また、ひとり
見覚えのあるおもかげが
店内に増えてゆく。

ひとりずつ、ひとりずつ
おそるおそる声をかけるが
やがてわたしは気づく。

偶然居合わせたのは
ただひとりわたしだけ。

みな示しあわせて集まったところに
招かれざる客として現れたのは
わたしのほうであることに。


わたしはわたしの夢のなかに
居場所をなくしたわたしを遺して
ふわりと意識を離脱する。

そして夢のなかに取り残された
わたしの脱け殻への興味を削いで

ああ、これは夢だ
夢なんだ、と
ふわりふわりと居なくなる。

漫然と漂う意識の残り香だけが
夢じゅうに広がっていても
意識を統べる自分はいない。

いるのはただ
夢とも知らずに
取り残された

あわれなわたしの入れ物だけ。




わたしがその入れ物のなかに
きちんと入っていたときは
どこにもなかった夢の認知が

まるではじめからあったかのように
すべての出来事を夢に変える。

夢だとも知らなかったことを
無知に感じて恥ずかしさのあまり

入れ物を見捨てて夢から醒める。

夢から醒めたわたしを待っているのは
入るべき肉体を間違えたかのような

違和感。

夢から醒めたわたしを待っているのは
身内を裏切り殺したかのような

罪悪感。

夢から醒めたわたしを生かしているのは
正当化や合理化が姿かたちを変えただけの

喪失感。




夢をみているそのときと
夢だと知ったそのときと
夢から醒めたそのときを

興味をもって振り返る。


何度も繰り返すその夢の
いままでとこれからを
何度も繰り返し思い描く。

もしも次にあの夢に出逢えたら

わたしはもう
ないものをなくすような
おろかな守りかたなど

しないだろうと思う。






【テーマ・ひるやすみ】


2月ももう少しで終わるというのに
今年はほんとうに厳しい冬で
今夜もたくさんの雪が降り積もりました。

ここ数年の冬を思い返しても
これほど雪の深い冬も
これほど印象の深い冬も
しばらくありませんでした。

すり減ったタイヤが
ツルツル横滑りするのが
とても怖いと思いました。

大雪の影響で列車が遅れ
腹をたてた男性が
駅員さんに怒鳴りかかるのを見て
足がすくみました。

公衆電話では別のひとが
除雪の不行き届きに怒って
どちらにかけているのか
大声で文句を言っていました。

ホームから落ちそうなくらい
ひとが溢れた吹雪の駅。
身動きできない電車のなか
泣きそうな声で「降ります」と
必死でもがく女性たち。

ご近所のご主人たちが
力強く雪かきをする様子を見ながら
はじめて羨ましいと思いました。

新しい冬靴が買えず
いつも転ぶことを恐れながら
身体をかたくして歩きました。


それでも

ふんわり積もった綿帽子は
ほんとうにとてもきれいです。

ひんやり凍える夜空の星は
ほんとうにとてもきれいです。

雪のなかにできた一本道を
譲り合うひとの往来はあたたかいです。

寒さのなかで懸命に辿った家路は
ほんとうのあたたかさを
もたらしてくれます。


春がすぎて夏が来ても
わたしはことしのこの冬を

忘れたくないと思います。









【テーマ・しゃかい】



日々生長していく子どもたちと
ともに生活をしていると
さまざまなことに気づきます。

母親という立場にあるからこそ
気づける些細なことがらですが
母親という立場のままでは
善処できない複雑なものです。


幼いころは仲むつまじく
寄り添っていた兄弟姉妹も
健全な成長の途中で必ず
ぶつかり合う時期がやってきます。

わたしにも弟がいますが
兄弟姉妹というのはときに
親でも友達でもない
心理的距離をはかりかねる
曖昧な存在であったように思います。

親が一親等、弟が二親等と知ったとき
なんだか寂しいような
それでいて妙に合点がいくような
複雑な思いがしたのを覚えています。

同じ家で育ち暮らしているのに
他界した祖父母と同じくらい
離れていることを知らされて

心細くも思ったものでした。


わたしがかつてそうであったように
わたしの子どもたちも近頃は
お互い激しくぶつかり合います。

自分のことを棚にあげて
相手のあげあしをとり
インネン寸前のイチャモンつけては
どちらが悪いと責め合います。

泣かし泣かされ
事の発端を置き去りに
感情剥き出しで
向かい合います。

ふたりは互いに二親等。

つまり間にわたしという
目に見えない壁があるのですが

目の前のふたりは
無意識ではその壁に寄りかかりながらも
互いの感情を見据えて
腹をくくって喧嘩している
そんなふうに見えます。

見えない壁となったわたしは
そこにいるようないないような
なんとも不思議な心持ちで

確かに間に立ちながら
その実、鳴りをひそめます。

ときには鳴りをひそめきれず
「いい加減にしなさい!」
と苛立ってしまったり

「この事に関しては
あなたの方が悪い!」
と結論づけてしまったり

そこに自分の感情を
挟み込んで巻き込まれたりします。

母親が仲裁に入れば
子どもとしては
たとえ納得がいかなくても
その場を収束させるものでしょう。

わたしは決まりが悪くなります。

子どもたちにしてみれば
いままで透明で見えなかった壁が
突然に色彩を放ち視界を遮り
見えていた相手が見えなくなったのです。

それどころか
ドロドロと艶やかな模様を
刻々と変えてゆく壁を目の前に
怖れさえ感じるでしょう。

子どもたちは
次々と壁にあらわれる模様に
怒りをみてとり
傷つきをみてとり

それらをそのまま
自分たちのこころに
映してしまいこんでしまう。

だからわたしは
決まり悪くて
いたたまれなくなるのでしょう。



たかがきょうだいげんか。
されどきょうだいげんか。

ひとは自分の放った暴言に
相手が傷ついたことを
自分の目で見てはじめて
自分の暴言に自分も傷つきます。

相手が自分の傷に気がついて
相手も傷ついているのを
自分の目で見てはじめて
相手を許す気持ちが生まれます。

相手に許されてはじめて
ひとは自分を許せるものです。

そして互いが歩み寄り
そっと手と手を繋ぐとき

そこに壁が見えていては
いけないのです。

壁であるわたしは
そこにいながらにして
そこにいる様子はなくても

わたしのこの両手に
ふたりのぬくもりを
こころから感じることができる
これ以上ない役得です。



成長過程の子どもの
コントロールの甘い感情を
黙って見守るのはときに試練です。

自分の経験の記憶や
予測や不安や義務や理念が
壁を内側から襲ってきます。

けれども決して諦めず
目の前の子どもの姿を見失わず
見えない壁に徹していれば

壁としての幸せが
子どもの幸せにもつながると
いまは信じたいと思います。

見えなくてもそこにある。
子どもたちは
知っていると思います。