【テーマ・どうとく】


たとえばかつてなく
煩わされている問題があるとして
それを解決するためにひとは悩む。

まともに悩むためには
問題はよりシンプルでなければならず
解決の糸口はより明確でなければならない。

解決の兆しは明るいものでなければならず
解決した暁にはその達成感はそれまでの
苦悩を払拭するものでなければならない。

そうやってひとは
問題の本質から離れてゆく。



そもそもその問題とは
その前の問題の解決から生まれたものだ。

その問題を解決し得ても
その解決は新たな問題を生む。

解決のために問題の焦点を絞ったはずが
かえって問題そのものをぼかしてしまう。

問題の解決とはつまり
対象までの距離を変えることであり
対象を覗く倍率を変えることであり

対象への見方を変えることに過ぎない。


同じものを見つめているというのに
見方を変えたというだけで
あたかも別のものを見ているかのような

錯覚に癒されているだけなのが
いわゆる解決と呼ばれるものだ。


解決は目的でも手段でもなく
すべての発する原因であり

ものごとの終わりは始まりであり
始まりはすでに終わりでもある。



たとえばかつてなく
こころを煩わされているならば

問題を解決しようとする前に
煩うことを問題にしてみると

たちまち悩みかたが
わからなくなってしまう。

焦点の合わない顕微鏡を覗いたように
対象への手がかりを失って

なにを見ているのかさえ
わからなくなるに違いない。

問題の全貌とは
もともと見えないものであって
それが本来の姿であるのであって

それこそまさに
真実であるかもしれないのに

解決の糸口を求めてわざわざ
対象を縮尺し視野を限定して

真実から遠ざかることが
解決のための手段になってゆく。

手段はいつのまにか目的化し
光学レンズのミクロの世界に満足するころには
真実は膨張し続ける宇宙のようなものになる。



たとえばかつてなく
煩わされている問題があるとして

悩むべくして悩むのをやめるには
ぼんやりとした世界に耐えるよう
ストイックにならなけばならない。

ふたつの目がどうしたって
ひとつのものを見つめようとするなかで

問題の解決を問題とすることに
耐えてゆかなければならない。

解決の与える達成感と恍惚感に
なかば中毒になっているならば

問題自体が解決可能なまでに
細分化され単純化されていることに
気づかなければならない。

解決を積み重ねることで
視野が限定され能力が弱っていることに
気づかなければならない。

宇宙を膨張させているのは
矮小する自分自身であると
気づかなければならない。



己の分を超えようとするなら
己に許された安楽を捨てて

たとえば瞳が焦点を合わせるような
当たり前の能力を忘れても

それに耐えてゆかなければならない。




【テーマ・ほけんたいいく】


ここ最近の傾向なのか
それともいままで
気づかなかっただけなのか

明け方に極端に眠りの浅くなる
時間帯があるようです。


意識が夢の側にあるときは
夢をみているんだなぁと
はっきり自覚しながら夢をみます。

意識が現実の側にあるときは
いま何時かなぁなどと
思いながら動かない体を感じます。

いずれにしても
起きるでも眠るでもなく
おそらくは身動きひとつしないまま
ぼんやりと意識だけを感じている
不思議な感覚に陥ります。

たいていはそのあと
また少し深い眠りにつくようで
次に気がつくのは目覚まし時計の
鳴るころなのですが

そのわずかと思われるあいだに
みる夢というのが

たいがいが恐ろしい夢なのです。


一度深い眠りから
帰ってきてしまったからなのか
現実にかなり近いところにある
恐ろしい夢なのです。

どうしてそんな夢をみたのか
容易に手がかりがつかめるくらい
単純でリアルな夢なのです。


欲望をそのまま夢にしたような
目論見をそのまま夢にしたような

憎しみをそのまま夢にしたような

恐ろしい夢なのです。


目覚めてから
夢を反芻するまでもなく
忘れたくても忘れられない
恐ろしい夢なのです。


願ってはいけない願いを
夢のなかで叶えてしまったような
恐ろしい夢なのです。


夢だとわかってみているなら
みるのをやめたらいいことなのに

わたしの意識は
ほんとの夢からの帰り道で

余計なみちくさを喰うのです。


夢なんだからいいじゃない
夢なんだから勝手でしょ

わたしの声がきこえてきます。

そんな恐ろしい夢なのです。




たくさんひとが死ぬのです。
そんな恐ろしい夢なのです。

目覚めてそのあと
夢のなかで殺したひとに

わたしは平然と会うのです。


そんな恐ろしい現実なのです。






【テーマ・しゃかい】


遠くに見える山肌はまだ白く
近くの公園にもまだ
雪が少しだけ残っています。

いつもなら5月の連休のころには
さくらが咲き始めているのですが
今年は連休も雨の寒い日が続いて

さくらもまだ開きません。

今日になってようやく
太陽の暖かさを肌に感じましたが
それでも風の冷たさが勝ります。



連休中の雨模様は
なんだかわたしの冴えない気分を
そのまま映し出しているようにさえ
思ってしまいました。

余裕を失い視野が狭くなると
発想が大胆不敵になるものです。

自然のなりゆきを
自分の都合にするなんてね。

よほど休日の連続が
負担だったとみえます。





昭和の日とかこどもの日とか
憲法記念日とかであれば
暦の上ではっきり確認できますが

もしもこどもの日がこなかったら
わたしたちはびっくりしますよね。


さくらの咲く日は
暦のうえではわかりません。

それなのに
なかなか咲かないとなると
そわそわしてたまりません。

きっと、わたしのなかに
目では確認できない暦があって
さくらの咲く日がこないから
少し不安になっているのでしょう。



ともあれ5月の連休は過ぎ去り
本日は太陽の暖かさを肌に
感じることもできました。

異常気象を招き寄せている一方で
巡る季節に思いを寄せるのは
実にいたたまれないことですが

さくら

咲くのを待っている
この気持ちに偽りはありません。