【テーマ・ひるやすみ】


書けない日々が続きました。

いままでだって
ほんとうに書きたかったことが
そのまま書けたことなんか
一度だってありません。

ほんとうに書きたいことが
そのまま書けなくても
頭に浮かんでくる言葉を
自由連想的に羅列していれば

なんとなくそれでよかったのです。

こころにうつるよしなしごとを
そこはかとなく書きつくるのは
実はとんでもなく大変な仕事ですが

大変な仕事だと認識する前ならば
いくらか楽に本心を語ることが
可能だったのではないかと思います。

無秩序な言葉の羅列や
突拍子もない連想の彼方に
自分さえ気づかないくらい控えめに
本心の輪郭が見え隠れします。

そこはかとなく
ぼんやりとしていて
なんの意思も主張もないところに

かたちにならないものの痕跡が
はっきりと浮かび上がって

慌ててぼんやりするのをやめると
瞬く間に失われてしまうような
儚くて繊細なのが本心のかけらです。

書こうとして書けるものは
その時点で本心ではないのです。


そんな
嘘かまことかわからないような
おかしなたねあかしをしてしまったので

書けない日々が続きました。


悲しいことがあったのに
書けない日々が続きました。

辛いことがあったのに
書けない日々が続きました。

なにをどう書いたとしても
醜く卑しい姿にしかならない気がして

書けない日々が続きました。


こころの奥底から
吹き出してくるものを
無節操に撒き散らすことを
許された時期は過ぎました。

自分のなかに
ある仕掛けがあること知ったら
もう同じ手品は試すことはできません。

同じ道を何度旅しても
最初の旅で手にしたものは
最初の旅でしか得られない。


書けない日々が続きます。

それはたぶん
停滞というのでなく
むしろ

然るべき変化と呼んでいいかな。


書けない。

それはつまり
書きたいと同義だからです。


いずれにしても
切なくつらいことです。


どちらにせよ
わたしには書くことしか
できないというのにね。



















【テーマ・りか】






昨年摘んだあさがおの種子を
出来れば全部まきたかった。

けれども植えられる場所は限られていて
とても全部はまききれない。

息子の教えてくれる通りに
種子を水につけておくと
それまで固く縮こまっていた種子が
ふわふわになって膨らみ

殻を破ってみずみずしい中身が
すがたをあらわしていた。

まるで止まっていた時間の
スイッチが入ったように一斉に
生命が動き出す。

キラキラした期待と
もう誰にも止められないという
もやもやした不安が
まぜこぜになって胸をよぎる。

数日経っても水のなかで
固いまま変化のない種子たち。

またはあまりに軽く
水面に浮かんだまま
ふやけてしぼんだ種子たち。

わたしたちはふだん
自然淘汰という言葉を
あまりに平然と使うけれど

少なくともわたしが
思っていた自然淘汰とは
ほんとうの意味の自然淘汰では
なかったのではないかと思う。

自他を区別して生きるわたしが
その目線で淘汰の様子を観察すれば
種の存続を懸けて失われてゆく
淘汰されるほうのいのちにばかり
感情が傾いてしまう。

どこまでも生き残る側からの
見方しかできないというのに
そこに犠牲だとか摂理だとかの
既成の型を嵌め込んで

生き残る罪をあがなおうと必死になる。

生き残ることが罪だと感じること自体が
滲み出る優越感の打ち消しであることにも
気づかないまま

その傲りにも気づこうとしない。


芽吹かなかった種子が
芽吹いた種子を恨むことが
あるだろうか。

芽吹いた種子が
芽吹かなかった種子を憐れむことが
あるだろうか。

個々の種子たちは
全体であさがお。

芽吹くかいなかの個体差に
あえて注目してそこだけに
淘汰の様子を見ようとするのは
検討はずれなのだと思う。

全部は植えられない。
生かすか殺すかの選別を
この手で行わなければならない。

そのストレス回避のために
わたしはわたしの既成概念を
種子の様子に重ね合わせ

自らの行いを正当化するためだけに
あさがおの世界を堂々無視している。


自然淘汰という現象があるとして
それは個々のレベルの意識が
意味付けすることなど叶わないのでは
ないだろうか。

その現象を自然淘汰と呼ぶことそのものが
個々の限界を裏付けているのではないか。


そもそも
飼育そのものに矛盾があるから
考察は果てしなくあさっての方角に
突き進んでいってしまう。



なんだかんだと理屈をこねても

つまりわたしは
昨年摘んだあさがおの種子の
半数を捨てたという罪悪感に

苛まれているだけなのです。

食べ残しのおかずを
平気で捨てているというのに
あさがおの種子を捨てることだけに
関心を払っている自分に

嫌悪を抱いているだけなのです。


あさがおには
なんの関係もないのです。

自然淘汰という言葉と知識は
いいように使われる道具にすぎないのです。



今年も
観察日記書いていきます。











【テーマ・ほけんたいいく】


よくみる夢には
いくつかのパターンがあります。

全く同じ情景を同じアングルで
眺めているという夢。
でもこれは最近はあまりみません。

子どものころによくあった
繰り返しみる夢のパターンでした。


似たようなストーリーで
登場している人物が度々異なり
途中で前にも同じような夢を
みたことがあると気づくパターン。

これは夢だと気づいた瞬間
激しく興ざめしてしまい
そのあとの夢の展開は
自分の意思でいかようにも
操れるような気になります。

近ごろよくみるパターンです。


まるでシリーズのように
続き物の夢もあります。

いつかみたあの夢の続編だと
気づいたときの興奮は
ちょっと例えようがありません。

いつかみたあの夢が
今日みた夢の伏線だったと
気づいたときの戦慄。

怪談話を聞かされたときのように
ゾワッとします。


まったく関係のない別々の夢に思えて
実は同じテーマに沿っているような
夢もあります。

わたしにはこのパターンが
一番多いような気がします。

ここのところ多いのが
たくさん部屋のある家の夢です。

夢ごとに違う家なのですが
ふだん居住している部屋のほかに
いくつもの使っていない部屋が
隠されているように存在して

まるで迷路のように続く
たくさんの部屋を
ひとつひとつ見て回るというのが
共通している部分です。

どの部屋も見覚えがあり
そういう部屋があることを知っていて

そこにどんな家具がしまってあるか
その部屋を誰が使っているのか
ちゃんと知っている自分に気づき

いつもびっくりするのも
共通している要素です。

筋立ったストーリーはなく
ただ場面が次々展開されるだけで
登場人物はいても台詞はなく

そこらじゅうにわたしの
思惑だけがうごめいていて

夢のなかの情景がそのまま
言葉を使わない説明になっていて
どこか当たり前に納得させられて
夢から覚めてゆくのですが

夢からさめてから
ゆっくりと部屋を思い返すと

ずっと前にみた夢のなかにあった
別の家の別の部屋を
より鮮明に思い出したりするのです。

まったく別の夢だと思っていても
どこか核心にあたるところで
つながっているような気がしてくる。

これも繰り返す夢の
ひとつのパターンに思います。



ただそれだけのことで
なんのオチもないのですが

夢ってほんとに


ね。