【テーマ・ほけんたいいく】




新しい朝を迎えるとき
その一瞬がすべてを決めてしまいます。

夢にまどろみながら
大きなあくびで息を吸って
自由の利かない四肢を伸ばし
ぼんやりとした眼をこすって
ぬくい布団から表へ繰り出す。

遺伝子がみせる夢から離れ
おぎゃーと叫んで肺に空気を入れ
ままならぬ四肢をバタつかせ
羊水にぬれたまぶたを動かし
温かい子宮から追い出される。

新しい朝を迎えるとき
毎朝わたしは産まれたときと
同じことを繰り返しています。

ひとつ違うのは
臍帯を千切られる痛みがないこと。

だからわたしは
昨日までの記憶を裁ち切れないまま
その朝をちっとも新しくないと
感じてその日を過ごします。

漫然と続く人生のほんのひとコマ。

細胞の一部が死に
新しい細胞が生まれていることにも
まったく気づくことなく

生まれ変わっていることに
ちっとも気づくことなく

昨日までの自分が
少し死んでしまったことに
ちっとも気づくことなく

飛び込んでくる景色をみては
昨日までの生活を呼び戻し

聴こえてくる音を耳にしては
昨日までの出来事のうえに
今日これからの未来を重ねてゆく。

漫然と続く人生のほんのひとコマ。





もしも毎朝起き出すたびに
臍帯を千切られていたならば

昨日までの記憶をすべてなくして
死んだことすら忘れていたならば

今日この一日が
人生のすべてになってしまう。

今日のわたしにとって
昨日は前世となり
今日の出会いは今日限り
今日の別れが今生の別れとなるでしょう。


昨日散らかした部屋の乱れは
生まれついた場所の有り様となり

昨日まで痛めつけた身体の傷は
生まれながらに持ち合わせた
どうしようもないハンデになり

昨日まで迷っていた問題の答えは
今日の新しい課題となるでしょう。


今日この日の終わりには
瞬くたまに過ぎ去った一刻一刻を思い
冷たくなった布団にくるまれながら
その日の死を迎えます。




新しい朝を迎えるとき
臍帯を千切る痛みがないのは
明日が与える祝福であり
昨日が与える罰であり

どちらも今日の生き方を決める
重要なことであるのに

わたしは「ある」痛みには気づいても
「ない」痛みにはなかなか気づかない。


それが日々を漫然とさせて
昨日も明日も
前世も来世も
ぼんやりとした今日のなかに
深く沈めてしまうのだと思います。




仮に毎朝
臍帯に当たるものを千切っても

昨日までの記憶は消えず
明日への期待も失われることはありません。

それでも千切るのです。

その現象が誰にも見えなくても
誰一人その違いに気づくことがなくても

ひとは誰しも
毎朝目覚めとともに
生まれ変わっているのだと

信じることはできると思います。











【テーマ・こくご】



あんなに必死に昇ってきたけれど
この梯子をもう一度降りようと思うんだ。

梯子の下の世界から逃れるために
よじ昇ってきたときは思いもしなかった。

それが昇るための梯子ではなく
降りるための梯子だったなんて。






地獄から伸びる高い梯子が
どこに続いているかも知らなかった。

亡霊のように追いかけてくる影を
見ないようにしながら振り返りもせず

常に足元に誰かの手が
伸びていることを恐れながら

ここではないどこかに抜け出すこと
それだけを考えて必死に昇り続けた。

引きずり下ろされる不安ばかりが
昇り続けるための理由になっても

息があがって腕の感覚が消えても
生きている実感が薄れていっても

まわりの何もかもの色が失われて
眼球に入り込む光さえ無くしても

ここではないどこかに抜け出すこと
それだけが救いと信じて昇り続けた。





ふと気がつくと梯子を昇り終わりしかし
到着の喜びも達成感もそこにはなかった。

そこに拡がる静寂が本当の静けさなのか
それとも耳が失われただけなのかそれも

わからなかったし誰も本当のことを
教えてくれるひともいなかった。

一心不乱で昇ることでもしかしたら
誰かを犠牲にしたかもしれなくても

それを非難されることも
罪悪感を慰めてくれるものもなかった。

何もかもをなげうって一生懸命に
昇り続けてきたけれども

それを労ってくれるひとも
誉めてくれるものもなかった。

ただ見たこともない透明な景色と
聞いたこともない静寂だけが

どこまでも限りなく続いていて
そこではないどこかなどもはや

目指すことも想像することも
むなしいほどに世界は無限だった。

そこではないどこか、それすら
そこはここである以外になかった。






唯一自分との関わりを残しているのは
昇ってきた梯子の存在だけだった。

あれほど苦しい思いをして昇った
その記憶さえも静寂は奪ってゆく。

もう一度梯子に手を伸ばしその先を
覗きこんだとき飛び込んできたのは

阿鼻叫喚と思っていた世界の
信じられないほどのあざやかさ。

いのちを脅かすと思っていた影たちの
信じられないほどのうつくしさ。

そしてその世界で苦しんでいる
たくさんの自分の姿たち。

音と色彩に囲まれて生きている
いのちある自分の姿たち。






あんなに必死に昇ってきたけれど
この梯子をもう一度降りようと思うんだ。

それを止めるものも咎めるものもいない。

迷いを振りきりながら昇るときは
足を引っ張っていたこのこころは

迷いなく降りていくと決めたとき
背中を押すことさえしないけれど

今度またこの梯子を昇るときには
追いかけてくる影に別れを惜しみ

色の消えてゆく景色に涙を滲ませ
遠ざかる懐かしい声に耳を傾けて

失われてゆくいのちを見つめながら
少しずつ少しずつ昇ってこようと

こころに決めて

この梯子をもう一度降りようと思うんだ。