【テーマ・おんがく】



ソナタ形式については
確か中学の音楽の授業などでも
教わったような気がします。


しばしば序奏があって
提示部、展開部、再現部ときて
しばしば終結部で結ばれます。

提示部で現れる主題にはたいてい
第一主題と第二主題があって
ふたつの主題の間には
ときどき推移部が置かれ

第二主題に向かう準備を整えます。

第一主題の調性によって
第二主題の調性が決められたりします。

旋律は雰囲気もイメージも
全く異なっていたとしても
第一主題と第二主題は
切っても切れない深い関係にあります。


そして展開部では
それまでの主題が様々に変形し
波乱万丈に転調を繰り返します。

おおいに盛り上がったり
突き落とされたりしながら
曲のピークを感じさせるような
高揚と絶望を思わせる展開です。


そのあとに訪れるのは
懐かしい主題のメロディ。
再現部です。

けれども提示部でのころとは
どこか少し違っています。
細部にうつくしい工夫がなされ
展開部を超えたいま
決して同じものではないことに
自然と気づかされたりします。


そしてコーダ。
それまでの旋律をすべて網羅するような
これ以上なく無駄のない振り返りと

すべてを円満に終焉に向かわせ
終わってしまうことへの無念など
微塵も許さない感動がそこに結集します。



ここにも理想の原型がありました。

起承転結もそのひとつだと
思っていましたが

わたしたちは日常のなかに
この小さな原型をさまざまな形で
何度も何度も繰り返しながら

人生の流れを作っているのでしょう。

これもフラクタルではないかと思います。






誰もがよき人生を歩みたい。

しかしその全貌は人生から離れなければ
眺めることはできないように思われる。

でもきっとそうじゃない。

ひとつの三角形が
自己相似的なミクロの三角形から
成り立っているように

ひとりの人生も
生まれたときから
すべてを総括できる要素の連続で
成り立っているのかもしれません。



音楽におけるソナタ形式の話から
ずいぶん飛躍してしまいましたね。

でも

教科ってそういうものだと思います。















【テーマ・こくご】


遠いあの日
うっかり離してしまった
赤いふうせん

あんなにねだって
買ってもらった
赤いふうせん

こんなことになるんなら
わがままなんか
言わなきゃよかった

こんなことになるんなら
欲しいだなんて
思わなきゃよかった





まだ小さなてのひらから
するりと抜けた
赤いふうせん

どんどん小さくなっていくのに
追いかけることが
できなかった

雲に引っ掛かっているかもと
雲のことを勉強したけど
そんなことはないってわかった

空の天井で止まっているかもと
空のことを勉強したけど
そんなことはないってわかった





なくしてしまうと知っていたら
欲しがったりはしなかったのに

誰かがくれると言ってくれても
受け取ったりはしなかったのに

よその子が嬉しそうにしていても
羨ましがったりしなかったのに

誰かをガッカリさせるくらいなら
やさしさなんか欲しくなかった





なくしさえしなければ
探すことはなかった
赤いふうせん

一度も手にしていなければ
憧れのままでいられた
赤いふうせん

どこを探せば見つかるのか
世界の地理をを勉強したけど
どんな場所にもないってわかった

いつを探せば見つかるのか
世界の歴史を勉強したけど
いつの時代にもないってわかった





どうして手離してしまったのか
いくら考えてもわからない

一度なくしてしまったから
二度と手に入れちゃいけなくなった

あれから何度も風船を
買ってあげようと言われたけれど

別の風船を手にするたびに
なみだが枯れてゆくばかり





無邪気なわたしに
母が買ってれた
赤いふうせん

母のほほえみを一緒に連れて
飛んでいってしまった
赤いふうせん

どうしたら忘れてしまえるか
脳と記憶を勉強したけど
忘れることなんかできなかった

どうしたら過去を変えられるか
今と未来まで投げ出したけど
変えることなんかできなかった





空を見上げても青いばかり
瞼を閉じてこころの旅に出た

するといつでも浮かんでくる
遠いあの日の赤いふうせん

夢のなかならいつでも会える
母のほほえみと赤いふうせん

あの日うっかり離してしまった
無邪気なわたしと赤いふうせん




なくしてしまったと思っていた
もう手にしてはいけないと

見つからないと思っていた
どんなに世界を知り尽くそうと

遠いあの日からずんぶん経って
何もかもがかわってしまったと思ったころ

静かによみがえる無邪気さは
老いた母の思い出のなかに






遠いあの日
うっかり離してしまった
赤いふうせん

ああ、そんなに悲しまないで

ここでわたしが
受け止めてあげるから
















【テーマ・りか】



駅のホームに停車中の電車に
乗っています。

発車を待っていると
向かい側のホームに電車が入ってきて
止まりました。

眺めている車窓には
すぐとなりに止まっている電車の車内。

数分後、その景色は
動き出し去ってゆく電車に変わりました。

さて

走り出したのは
わたしの乗っている電車でしょうか
向かいに止まっていた電車でしょうか。




冷静に考えればわかります。

体が震動やGを感じていれば
動いたのは乗っている電車です。

音ばかりが騒々しいなら
動いたのは止まってた電車です。

なのに
わたしは時々錯覚します。
 
どちらの電車が動き出したのか
一瞬わからなくなるスキがあるのです。


そんな時であっても
それが電車での出来事なら
まだ救いがあります。

あとから来たあっちの電車が
先に発車したことに対する戸惑いも
こっちが先に発車するって期待した
自分が招いた焦燥に対する恥ずかしさも

体のあるのがこっちの車内で
気持ちがあるのもこっちの体だと
すぐに確認することができるので

ちょっと決まりは悪くても
きちんとまっすぐに捉えることができます。

決まり悪い思いをすることが
ちょっとした救いです。

感覚のズレや歪みを調整するのに
気持ちがいいわけはありません。

向かい側の電車が去ったあと
人気の引いたホームを見て
再び静けさを取り戻すだけです。







では川の流れはどうでしょう。

流れているのは
川でしょうか、わたしでしょうか。

また時間の流れはどうでしょう。

流れているのは
時間でしょうか、わたしでしょうか。

流れているのでしょうか
流されているのでしょうか。

流れに乗るとそれは
止まっているのとどう違うのでしょうか。

流れているようにみえるならそれは
わたしは止まっているということでしょうか。

川も時間も止まっていて
わたしが思っているのと反対へ
向かっているだけなのでしょうか。

いったいいつまで待てば
静けさが戻って真実がわかるのでしょうか。

そんなときが果たして
訪れることがあるのでしょうか。

待つ間に流れる水や時間は
どこへ行くのでしょうか。

すべてが錯覚だとしたら
果たして正気に返るには
どんな現象が必要でしょうか。

川も時も流れる前の静寂を
わたしは知っていたのでしょうか。 







何気に眺めていた窓の景色。

突然に動き出した景色にあわてて
もしもこころが返る場所を間違えたら

向かい側のホームに止まった電車に
乗ってしまったまま遠くどこかへ
運ばれてしまうこともあるでしょう。


流れているとしか思えない時間に
乗せられたまま遠くどこかへ
運ばれてしまうこともあるでしょう。



考え出したらきりがないけれど
気づいたからには考えなければ。



走り出して去ってゆくのは
こちらだろうか、あちらだろうか。

未来から過去の方へ流れてゆくのは
時だろうか、わたしだろうか。



もしも電車を降りたなら
わたしはどこへゆくのだろうか。