【テーマ・そうさく】



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コツコツという耳に馴染まない
どちらかというと不愉快な音で
ぼくはハッと我にかえった。

振り向くとそこには
見覚えのない男の姿がある。

彼はノミのような道具を使って
壁を丹念に調べるようにしながら
時々力を込めて壁を叩いている。

この男、いつからここにいたのだろう。

いや、ぼくこそ、
いつの間にこんなところに迷い込んだのか。

男が壁を叩く音に気づく前まで
ぼくはどこにいたのか
さっぱり思い出せない。

突然の出来事に遭遇した直後のほうが
状況を見回す時間を与えられた後より
よほど冷静でいられるようだ。

ぼくはコツコツという音を聞いたときより
その音がどこからどうして聞こえたかを
知ったあとのほうがずっと
平常心を失って明らかに狼狽えていたと思う。

自分が狼狽えていることに
ぼくが気づくやいなや
そのタイミングを見計らったように
男はぼくをその視線にとらえた。

ぼくと男の目が合った。

ぼくは、男と目を合わせているにも関わらず
男にはぼくの姿は見えていないように感じた。

正確にはそう思いたかった。

直感というのはいつも
ぼくの身勝手な思惑を隠しながら
ぼくにとって都合のいいことだけを
意識に残して去っていく。

そしてたいがい
それは事実とは異なっていることが多い。

案の定、ぼくの直感は間違っていた。


「出口を探している。」

男は乱暴にそう言って
ぼくはその言葉がぼくに向かって
投げつけられたのだと理解する。

つまり男にはぼくが見えている。

男の言ったせりふが意味することより
ぼくはぼくの直感が間違っていたことに
気を取られてしまっていた。

だから男のせりふと
男の壁を叩く仕草の間に
何の関係も見出だせないまま

反射的に男の言葉を
弾き返すようにオウム返しにした。


出口を探しているんですか?


ぼくの声はこの男に
ちゃんと聞こえるんだろうか。

ぼくが疑問に思ったのとほぼ同時に
男の答えが返ってきた。

「そうだ、出口を探している。」


二度も同じことを言われて初めて
ぼくはぼくの目にした男の行動と
ぼくの聞いた男のせりふとの間に
繋がりを持たせることができた。

彼は出口を探して壁を叩いている。

つまりここには
出口がないか
あるいは出口はあるが
まだ見つかっていないのだ。

そしてぼくも
ここからの出口を知らず
出口があるのかどうかも
まだ知らないでいるのだ。

その気づきはぼくを一気に
不安と恐怖の中に突き落とした。

待て。

入ってきたのだから
出られるはずだ。

むやみに恐れるべきではない。

けれど、どこから入った?

その答えに気がつくのを
避けるようにしてぼくは声を放った。


出口が見つからないのですか?
あなたはどこから入ってきたんです?


男は手にした道具を壁にこすりつけ
ガリガリとイヤな音をたてながら言った。

「お前はどこから入ってきたんだ。」

その質問に答えるためには
ぼくは彼へ質問することでやっと避けた
その答えをぼくの言葉で返さなければならなかった。


わかりません。
気がついたらここにいたんです。


ぼくの答えた言葉は
ぼくを正真正銘不安にさせたはずだが
ぼくの態度は逆に悠然となって

恐怖や不安をこの男に覚られまいと
ぼくのひとまわり外側に
もう一枚のぼくを羽織ったような気がした。

ぼくは突然雄弁にる。


あなたもどこから入ったか
覚えていないんですね。
ここはどこなんです?
あなたはいつからここにいるんですか?

出口を探しているって
ここは迷路なんですか?
ぼくらは迷っているんでしょうか。


「さあな。」


ぼくの言葉に対して
彼の反応はあまりにも淡白だった。

それはぼくをガッカリさせるどころか
この不可解な状況下にありながら
ぼくを憤慨させるくらいの素っ気なさだった。

けれどもぼくは
ぼくの外側に一枚羽織ったぼくのおかげで
不可解な状況を分析するのが先決だと判断する。

おかしなところに来てしまった。
一刻も早くここから脱出しなくてはならない。

そのためには情報が必要だけれども
目の前のこの男に情報を期待したり
まして協力を願い出たりするのは
あまり得策ではないように思われる。


男が手にしているノミのような道具を見て
ぼくは何も持っていないことに気がついた。

鞄も持っていなければ
時計も身に付けていない。
いつもポケットに入れているはずの
鍵の束も携帯電話もない。

コツコツという音に気づく前までの
記憶を失っていることに危うく気づきそうなり
ぼくは迂闊にも手ぶらで出掛けた自分を責める。

手ぶらで出掛ける、そんなことが
ぼくに起こり得ないことを知りながらも。




その時、男が突然声を発した。

「扉だ。」

男の指差す方を見ると
頑丈そうなたたずまいの扉が
堂々と壁にはまりこんでいた。

開けてみるまでもなく
重い扉であろうことはわかったし
だいいちノブの辺りが錆び付いていた。

扉を指差してそれを扉だと言う男の態度は
ぼくがその扉を開けるのに手を貸すのが
当然だという結論を示していた。

なのにぼくは
わざわざ男に余計な確認を行う。

扉ですね。
押してみましょうか。
でも簡単には開きそうもないですよ。
ずいぶんと錆び付いてしまっている。

すると男は意外なことを言った。


「錆はお前の都合だ。
俺には関係ない。


どういう意味だろうか。

この男は屈強だから多少の錆び付きなど
力任せでどうにでもなると言いたかったのか。

それともこの錆がこの男には見えないのか。

まさか。


ぼくはぼくの外側に羽織ったぼくの内側で
怪訝に思いながらも
扉を開けるために扉に近づいた。

男も近づいてくる。

その時、男の手にしていた道具が
思っていたよりも鋭利なことに気づき

不可解な状況下において
男の発した不可解な言葉が
ぼんやりとした、それでいて明確な
恐怖に変わるのを感じた。

まさか。


ぼくの外側に羽織ったもう一枚のぼくは
ぼくよりも勇敢なのか鈍感なのか

どちらにせよぼくは
男と共に扉を力一杯押し始めた。

ぼくの都合の錆がギリギリとイヤな音をたて
ズルズルと滑って後退する両足を踏ん張り
少しずつ少しずつ扉は開いていった。

ぼくはこの扉が出口だろうと
思いたかったに違いないのに

この扉が出口ではなかった場合の
落胆や失望に備えて
扉の正体を不問にしていた。

それが扉を押す力を制限することになって
そのことを知った男がぼくを睨んでいる、
そんな気がして仕方なくなったが

ぼくの直感はたいがい
間違っているはずだ。














【テーマ・しゃかい】



日常生活のなかでふと感じた
やるせない気持ちについて
ほんの少しだけ考えてみただけなのに

それからというもの
底無しに悶々としてしまいました。

こうなるともう
家事をしていても仕事をしていても
眠っていても起きていても
考えることが止まりません。

家事をしているときは家事を
仕事をしているときは仕事を
寝ているときは寝ていて
起きているときは起きていて

一見生活にはなんの変化もないようで

つまり考えが止まらなくても
考えていないときと比べて
していることには
変わりはないのでしょうけれど

気持ちは底無しに悶々としているのです。



考えるときには
考えることに没頭した方が
いいのかもしれませんね。

でもなかなかそうはいかないものです。

考えていたくても
やることがたくさんあって
そんな時間がないとか
いろいろ言い訳は見つかりますが

要するに考えるという行為には
誘惑が多すぎて
しかもわたしたちはその誘惑に
あんまり弱すぎるのです。

考えるときは真剣に考えろと
言われたりしながらも

考えることに没頭して
家事も仕事も手につかず
眠ることも起きていることも
いつも通りにできなくて

食べることも話すことも
できないくらい真剣に考えていたら

まわりの人から心配されてしまうでしょうね。


真剣に考えてるだけなのに
変になったと思われるかもしれません。

現にそういうひとは
世の中にたくさんいると思います。




考える、というのもまた言葉でもあります。

ふだん日常生活を滞りなく
行いながらできる「考える」というのも

先に書いたような日常生活が脅かされるほど
一大イベント的な「考える」というのも

どちらも言葉にすると同じです。

前者は「思う」
後者は「悩む」
に置き換えることもできそうですね。

言葉は記号ですから。

言い換えや置き換えなんて
朝飯前です。

でも前者と後者は
現象としては全く違っています。






わたしはいま悶々としながら
「考える」という言葉があらわす
「考える」とはどういうことかということを
「考えて」いるわけですが

その行為もまたこの記事上では
「考える」という言葉で
あらわされているわけです。

これはどういうことでしょうか。
結局、堂々巡りなんでしょうか。


言葉は添え物でした。

自分のしていることに
その言葉を添えることで
他人との認識の共有を強化できる
便利な道具なのでした。

わたしはいま自分のしていることを
文字に書きながら「考える」という
ラベルを貼ることで
考えていることになっているのです。

ではわたしはいったい
何をしているのでしょう。



言葉は生きているのでした。

でも言葉は脈を打たないし
呼吸もしているようには見えません。

生きているなら死にそうなものですが
言葉が死ぬところなんか
みたこともありません。

死語という言葉がありますが
死語となってからもその言葉は
死語として存在しますから

死を無だとするなら
それは言葉の死だとは言えなさそうです。


そもそも
いまこの瞬間わたしがしていることは
生きた「考える」なのでしょうか。

「考える」が生きているって
いったいどういうことでしょうか。





誰かこれを読んでくれる人があったら
一緒に悶々としてくれたら嬉しいです。

あなたがその悶々とした現象に
一緒に「考える」という言葉を
添えてくれたなら

それはあなたとわたしが
「考える」という言葉に
たましいを吹き込んだことになるからです。

あなたとわたしがしていたことは
「考える」という言葉が
「考える」という言葉になる前の
絶対的な行為であり現象です。

言い換えも置き換えも不可能な
あまりにも確実すぎる現象です。

ここに言葉を以て対抗することなど
絶対にできない領域での現象です。

「考える」を考えていたはずなのに
考えるという言葉をはるか離れて
すべてが現象でしかなくなったときに

「考える」が生まれる前まで
わたしたちが退化することによって

「考える」にいのちを吹き込むことが
できるようになるんです。





こうなると
生きた「考える」が止まりません。

身の回りに溢れている
数えきれない言葉。
わたしがまだ知らない
想像を絶する未知の言葉。

それらはどうやって
たましいを吹き込まれたのだろうか。

その言葉を遣うことで
どんな世界に退化させられてしまうのか。

その言葉が生まれた現象が
いったいどんな現象なのか。

そう言いながら話している
この言葉はどうなのか。

いまここに書き連ねている
一言一句はどうなのか。

その熟語は、慣用句は、
漢字や平仮名はどうなのか。

子どもたちと交わす
会話のなかの言葉はどうなのか。







考えることの心地よさに
昼も夜も忘れてしまいそうです。


























【テーマ・しゃかい】



同じことを伝えるにしても
言い方次第で印象が変わるのは
周知の事実だと思います。

最近本屋さんを巡っていると
日本語の使い方や
特に大人の物言いや敬語や
ビジネスや人間関係改善に向けた
ノウハウ本がよく目につきます。

興味をそそられて
少し立ち読みしてみたりもします。

でもいつも感じるのは
なんとも言えないやるせなさです。

なぜそんな気持ちになるのか
少し考えてみました。




言葉は道具です。

言葉そのものは記号であり
古代から文明あるところに
文字が発展してきたと聞きます。

言葉が意味を持つのは
ある一定の約束ごとの上にあるからで
ひとと言葉の関係を考えたとき
生命の維持そのものには
言葉は何の影響も与えられない
位置関係にあります。

たとえば目の見える人が
戸外で頭上を見上げて
そこに広がるとてつもなく大きなもの
それが空であると約束したから

それは空と言うのです。

誰かがそれを海だと言ったら
それは約束事をたがえているだけで
言葉という記号が間違っているわけでは
ありません。

まして空を海だと言った人が
それがもとで死んでしまうはずも
ありません。

けれどもおしなべてひとは
空と呼ぶべきものを
海と呼ぶ人があれば
その人は間違っていると思うわけです。

約束事を守らなければ
言葉は道具としての役割を失います。

みんながバラバラなことを言い出せば
意思の疎通も感情の共有もできず
それどころかこの現代社会においては
起きて食べて寝るという
日常生活さえままならなくなるでしょう。


では言葉を本来の役割通りに
役立たせているその約束事とは
どこにあるのでしょうか。

それはたいてい言外にあります。

ある特定の感情を指して
それを「嬉しい」と言うことにします。

嬉しいという気持ちは
嬉しいという言葉が先にあったのではなくて
そういう気持ちを以て嬉しいと
呼ぶことになったのです。

ところ変われば
ハッピーと発音するところもあるわけですが

指している気持ちはおんなじです。


約束事は何故か言葉にはできないのです。

それは言葉にする以前に
人類全員が共通して備えている
大前提がもとになっているからです。



言葉は添え物です。

誰かがあなたを温かく抱擁し
あなたの投げ掛けた微笑みに
微笑みを以て返してくれたら

そこに確固たる共通の感覚が芽生えます。

しかしそこに
それを愛と呼ぶという約束事を介入させて

愛しているという言葉を使うことで
なおさらそれを目に見える形に
しようというのが言葉です。

ふたりがその感覚を共有している間
愛という言葉にはいのちが吹き込まれます。

道具であった言葉が
添え物であった言葉が
魂を吹き込まれ
生き物に変わります。



言葉はそう、生き物です。

けれども
草花や動物やわたしたちのように
どこからともなく命を与えられたような
存在とは少し違います。

草花や動物と同じなのは
与えられた大前提の部分までであって

言葉の持つ生命力は
大前提のあとの約束事ありき
人々の共感とたましいありき

生かすも殺すも
いのちを与えたわたしたち次第なのです。

まるで神の所業を真似るかのような
恐れを知らぬふるまいなのです。




それを

自分を上手にアピールするためにはとか
物事をうまく運ぶためにはとか
デキる大人だと思われるためにはとか

そんなことで
言葉の遣い方を言葉を以て指南される

そこに耐え難いやるせなさを感じます。




言葉の大切さは
言葉そのものよりむしろ
言葉を言葉たらしめる約束事と
その礎となる大前提にあると思います。

個人的な意見ではありますが

他人との共感を確かなものにし
自分のなかにある大前提が
どの人のなかにも存在することを
確かめるのが言葉の役割のひとつなら

言葉とはそもそも
万人の平等を確かめるためのものです。

言葉にいのちを吹き込むのは
自分を差別化したり突出させたり
するためではなく

大衆や常識におもねるためでもなく

大前提の真実を確かめるためです。



ともすればせわしない日常生活のなか
隔絶されてしまいそうな
いのちの大前提の手応えを

どうにかして確かめたい。

だから言葉を尽くして生きるのです。

無意識に埋もれた言葉にならない何かを
誰もが必ず共有していることを
誰もが知っているようで知らない。

だから誠意を尽くして接するのです。


言葉を尽くすことは
誠意を尽くすことです。

営業成績を上げるためでも
就職活動を有利にするためでも
異性に好かれるためでも
ありません。

あなたもわたしも
同じ血の通った生き物であると
確かめるために言葉を発するのです。

言外に結んだ約束を
果たすために言葉を遣うのです。





道具であり添え物であり
さらには生き物であるそんな言葉ですから

トラブルも絶えないでしょうけれど

それは言葉に原因があるのではなく
遣う人間の側に原因があるのだから

神の所業を真似た人間の罪は深く
その責任は負って生きるべきだと

そう感じるのが
このやるせなさの源なのかなと

ふと思ったりもしています。