【テーマ・そうさく】
扉はしかしぼくらが手を離そうものなら
まるで扉自身に意志でもあるかのように
すぐに閉まってしまいそうだった。
この不可解な状況下では
扉がそれ自体の意志を持って
重力を支配するなんてことさえ
なんらおかしいことには思えなかった。
扉の向こうに続いていたのは
扉のこちらとまったく同じ風景で
それをチラリと視界の端に止めただけで
ぼくは扉から手を離すことを
ためらいなくためらった。
再び閉ざされてしまったら
もう二度と開けることはできない。
確信があった。
理由はわからない。
ぼくらの身体が通り抜けるに十分な
隙間が空いたところで男は
扉の向こうへとその屈強な肉体を滑らせた。
無条件にぼくの身体も
男に引きずられるように
扉の向こうへと滑り込む。
けれどもそれは
ぼくの意志に反していることは
間違いないとぼくは思った。
待ってください!
ここはこのまま開けておきましょう!
ぼくはぼくの発した声の
必死さ加減に我ながら驚いた。
ここを閉ざしてしまったあとに
他の道が見つからなかったら?
辿れるルートはたとえ戻る道だとしても
一本でも多く残した方がいい。
いや、そんなことを
考えての叫びではなかった。
ぼくをのみ込んだこの扉が
口を閉ざしてしまうの恐かった。
ノブの辺りを覆っていたあの錆が
ぼくの胸のなかまで侵食してくる。
そんなぼくをよそに男は
早々とそのたくましい腕力を
なんの躊躇もなく弛めてしまった。
「開けておきたきゃ開けておけ。」
ふたりの力でようやく開いたはずの
錆びて重たいその扉は
男が手を離したその瞬間に
ぼくがぼくの指一本でも支えられる
頼りないドアに変わった。
ぼくはもうたいがいのことでは
驚かない自信がいつのまにか
ついたような気がした。
さっきまで扉が閉ざされてしまうことを
恐怖していたぼくはどこかへ消えて
そんなぼくがいたことさえぼくは
いまやなかったことにしたことに
たぶん気づいていなかったのだと思う。
扉をくぐったときに
ページがめくられたのだ。
開けておいたほうがいいと思いますね。
辿ってきた道に印をつけておくのは
迷路からの脱出には有効なことですよ。
ぼくの言うことには一理ある。
男も納得するはずだと
ぼくにはそういう自信があった。
けれども男は
ぼくに反対するでも賛成するでもない
またしても意外なことを言った。
「お前の印は俺には関係ない。」
ぼくはたまらなくなって
ほとんど衝動的に言葉を返した。
何故です。
お互い脱出には協力はしないということですか。
ぼくの胸の内のどこか遠くで
男の手のなかの鋭利な切っ先が
キラリと光ったような気がしたが
ぼくの衝動を抑える術にはならなかった。
男はぼくのほうを
少しも見ないで話を続ける。
「お前の前に現れたやつは
通るところにいちいち楔を打って歩いた。
何べんも楔を打って塔が歪んで
結局塔が崩れてそいつは下敷きになった。」
この不可解な状況下だ。
男の話を鵜呑みにして恐怖することのほうが
当たり前に思いそうになったところで
ぼくはなるべく時間をかけずに
男の話を検証する能力を思い出すことに成功した。
おかしい。
塔が崩れて?
あなたは無事だったんですか。
それでここに迷いこんだということですか?
それともここがその塔だと?
いったいどういうことです?
そのひとは亡くなったのですか?
なぜ、あなただけが無事なんです!
すると男は急にぼくに顔を近づけた。
鼻と鼻とが触れあうくらい
ぼくの視界いっぱいを駆使しても
男の表情がわからないくらい
驚くほど近くに寄ってそして囁いた。
「いいか。
崩れたのはそいつの塔だ。
俺には関係ない。
そいつが打った楔のせいで
そいつの塔が崩れた。
それだけのことだ。」
どのくらいのあいだ
ぼくは唖然としていたのだろう。
気がつくと男はまた
手にしたノミのような道具で
コツコツと壁を叩いていた。
その後ろ姿に、ぼくはもはや
さっき見たはずの男の様相を
思い出すこともできなくなっていた。
耳元に残る男の囁き声すら
そこで壁を叩いている男のものかどうか
わからなくなっていた。
いまやぼくの指一本で支えている
この扉の行方さえ
もうぼくには決められなくなっていた。
いや、はじめから
ぼくに自分で決める気はなかったのだ。
直感というのはいつも
ぼくの思惑を隠しながら
ぼくに都合のいいことだけを残して
去っていってしまう。
ぼくにわかる部分だけを残して
ぼくにわからないものをすべて奪って
去っていってしまう。
ぼくにはわからないものを
捕まえておけるだけの力がないのか。
ぼくの直感がいつも間違っているのは
ぼくにわからないことのほうが
ぼくにとって正しいからなのか。
正しいほうのことを
ぼくには捕まえておくことができないのか。
まさか。
そう言ったぼくの言葉は
ぼくの耳のなかに反響してそして
雑音と混ざりあって消えていった。
そしてぼくは電車を降りた。
いつも通りの通勤ラッシュ。
昨夜の深酒が祟った寝不足の朝。
乗り換えのホームへ向かう人の波に
のみ込まれていくような感覚に陥りながら
ぼくは
通勤途中でまさか迷子になど
なろうはずもないと苦笑した。
どういうわけか
どこかで迷っていたような気がしたからだ。
扉はしかしぼくらが手を離そうものなら
まるで扉自身に意志でもあるかのように
すぐに閉まってしまいそうだった。
この不可解な状況下では
扉がそれ自体の意志を持って
重力を支配するなんてことさえ
なんらおかしいことには思えなかった。
扉の向こうに続いていたのは
扉のこちらとまったく同じ風景で
それをチラリと視界の端に止めただけで
ぼくは扉から手を離すことを
ためらいなくためらった。
再び閉ざされてしまったら
もう二度と開けることはできない。
確信があった。
理由はわからない。
ぼくらの身体が通り抜けるに十分な
隙間が空いたところで男は
扉の向こうへとその屈強な肉体を滑らせた。
無条件にぼくの身体も
男に引きずられるように
扉の向こうへと滑り込む。
けれどもそれは
ぼくの意志に反していることは
間違いないとぼくは思った。
待ってください!
ここはこのまま開けておきましょう!
ぼくはぼくの発した声の
必死さ加減に我ながら驚いた。
ここを閉ざしてしまったあとに
他の道が見つからなかったら?
辿れるルートはたとえ戻る道だとしても
一本でも多く残した方がいい。
いや、そんなことを
考えての叫びではなかった。
ぼくをのみ込んだこの扉が
口を閉ざしてしまうの恐かった。
ノブの辺りを覆っていたあの錆が
ぼくの胸のなかまで侵食してくる。
そんなぼくをよそに男は
早々とそのたくましい腕力を
なんの躊躇もなく弛めてしまった。
「開けておきたきゃ開けておけ。」
ふたりの力でようやく開いたはずの
錆びて重たいその扉は
男が手を離したその瞬間に
ぼくがぼくの指一本でも支えられる
頼りないドアに変わった。
ぼくはもうたいがいのことでは
驚かない自信がいつのまにか
ついたような気がした。
さっきまで扉が閉ざされてしまうことを
恐怖していたぼくはどこかへ消えて
そんなぼくがいたことさえぼくは
いまやなかったことにしたことに
たぶん気づいていなかったのだと思う。
扉をくぐったときに
ページがめくられたのだ。
開けておいたほうがいいと思いますね。
辿ってきた道に印をつけておくのは
迷路からの脱出には有効なことですよ。
ぼくの言うことには一理ある。
男も納得するはずだと
ぼくにはそういう自信があった。
けれども男は
ぼくに反対するでも賛成するでもない
またしても意外なことを言った。
「お前の印は俺には関係ない。」
ぼくはたまらなくなって
ほとんど衝動的に言葉を返した。
何故です。
お互い脱出には協力はしないということですか。
ぼくの胸の内のどこか遠くで
男の手のなかの鋭利な切っ先が
キラリと光ったような気がしたが
ぼくの衝動を抑える術にはならなかった。
男はぼくのほうを
少しも見ないで話を続ける。
「お前の前に現れたやつは
通るところにいちいち楔を打って歩いた。
何べんも楔を打って塔が歪んで
結局塔が崩れてそいつは下敷きになった。」
この不可解な状況下だ。
男の話を鵜呑みにして恐怖することのほうが
当たり前に思いそうになったところで
ぼくはなるべく時間をかけずに
男の話を検証する能力を思い出すことに成功した。
おかしい。
塔が崩れて?
あなたは無事だったんですか。
それでここに迷いこんだということですか?
それともここがその塔だと?
いったいどういうことです?
そのひとは亡くなったのですか?
なぜ、あなただけが無事なんです!
すると男は急にぼくに顔を近づけた。
鼻と鼻とが触れあうくらい
ぼくの視界いっぱいを駆使しても
男の表情がわからないくらい
驚くほど近くに寄ってそして囁いた。
「いいか。
崩れたのはそいつの塔だ。
俺には関係ない。
そいつが打った楔のせいで
そいつの塔が崩れた。
それだけのことだ。」
どのくらいのあいだ
ぼくは唖然としていたのだろう。
気がつくと男はまた
手にしたノミのような道具で
コツコツと壁を叩いていた。
その後ろ姿に、ぼくはもはや
さっき見たはずの男の様相を
思い出すこともできなくなっていた。
耳元に残る男の囁き声すら
そこで壁を叩いている男のものかどうか
わからなくなっていた。
いまやぼくの指一本で支えている
この扉の行方さえ
もうぼくには決められなくなっていた。
いや、はじめから
ぼくに自分で決める気はなかったのだ。
直感というのはいつも
ぼくの思惑を隠しながら
ぼくに都合のいいことだけを残して
去っていってしまう。
ぼくにわかる部分だけを残して
ぼくにわからないものをすべて奪って
去っていってしまう。
ぼくにはわからないものを
捕まえておけるだけの力がないのか。
ぼくの直感がいつも間違っているのは
ぼくにわからないことのほうが
ぼくにとって正しいからなのか。
正しいほうのことを
ぼくには捕まえておくことができないのか。
まさか。
そう言ったぼくの言葉は
ぼくの耳のなかに反響してそして
雑音と混ざりあって消えていった。
そしてぼくは電車を降りた。
いつも通りの通勤ラッシュ。
昨夜の深酒が祟った寝不足の朝。
乗り換えのホームへ向かう人の波に
のみ込まれていくような感覚に陥りながら
ぼくは
通勤途中でまさか迷子になど
なろうはずもないと苦笑した。
どういうわけか
どこかで迷っていたような気がしたからだ。