【テーマ・りか】


雪解けが一気に進んでいます。

先日もひどい寒気に見舞われ
ここ数年は季節が今までと
その様子を変えていくのを感じます。

けれども春はやってくる。

あんなに沢山積もっていた雪は
太陽の光でみるみる融かされ
隠れていたアスファルトが
久しぶりに乾いた姿を見せました。

玄関には除雪用具が
気まずそうに疲れた体を
壁にもたれかけています。

寒かった冬のあいだ
僅かな雪をなんとか融かすために
家庭用融雪槽とか
ロードヒーティングとか

莫大な犠牲を払ってひとが手にした
エネルギーを以て必死になって
便利な生活を維持するために
働かされた設備を思うと

この春のお日さまの光の
途方もない力がどんなにスゴいか
ひしひしと感じられます。

あっという間にとけていく、
名残惜しさも感じさせてくれないくらいに。



この強い光の持つ力のなかには
生命には毒になるものも含まれているのに

地球の大気や磁場が
それらからわたしたちを守ってくれています。

ほんとうは太陽はいつも最大限に燃えて
燃えて燃えて燃えっぱなし
わたしたちのために怯むことも
わたしたちのために頑張ることも
どっちだってしてはくれないのです。

春の光があたたかく柔らかいのは

巡る季節と廻る地球と
それを行わせてくれている自然の摂理と
宇宙の生まれた偶然と神秘と

それらを喜びに感じることができる
わたしたちヒトの
感性のおかげもあるのでしょう。


太陽はお日さまと
呼ばれていることさえ知らない。

凍てつく大地を一気にとかす
こんなにスゴい星なのに。








【テーマ・こくご】


誰がくれたか忘れたけれど
そのひとはぼくにこう言った。

絶対に手離していけないよ。


何をくれたか忘れたけれど
そのひとはぼくにこう言った。

決して見せてはいけないよ。



確かにぼくはそれを持ってた。

いつもポケットにしのばせて
時々手を入れてはにぎりしめ

確かにあるのを確かめていた。



好きな子には見せたかった。

だけどぼくは見せなかった。

するとあの子は悲しい顔で
ぼくのそばから離れていった。

ぼくは約束を守ったけれど
好きなあの子はいなくなった。



盗んだものは出せと言われた。

だけどぼくは渡さなかった。

するとぼくは閉じ込められて
母が来るまで出られなかった。

ぼくは約束を守ったけれど
母を泥棒の親にしてしまった。



確かにぼくはそれを持ってた。

いつもポケットにしのばせて
困ったときにはにぎりしめた。

誰がくれたか忘れたけれど
絶対に手離したりしなかった。

何をくれたか忘れたけれど
決して見せたりしなかった。



いつしかポケットのなかのぼくの手は
どんなときでも力いっぱい握られて

しびれてなんだかわからなくなった。

何を握りしめていたのかも
何を守っていたのかも。



誰がくれたかわからない。
何をくれたかわからない。

好きなあの子はいなくなって
ぼくは泥棒になってしまった。

ぼくのポケットのなかにあるのは
しびれて動かないにぎりこぶし。


誰との約束を守り通したんだろう
この手で何を握り潰したんだろう

好きなあの子のまぶしいすがたも
やさしい母のあたたかい眼差しも

いまは動かないにぎりこぶし。



誰がくれたか忘れたけれど

何をくれたか忘れたけれど

ほんとうに手離しちゃいけないものなら
あなたが手離すはずはないんだ。

ほんとうに見せちゃいけないものなら
それを見せられたはずはないんだ。



確かにぼくはそれを持ってた。

ぼくがはじめから持っていて
ポケットにしのばせていたんだから

好きなあの子に見せたらよかった。
盗んでいないと言ったらよかった。

握りつぶしてしまう前に
しびれて動かなくなる前に

ぼくもちゃんと見ていたらよかった。





誰がくれたか忘れたけれど
そのひとはぼくにこう言った。

絶対に手離してはいけないよ。


何をくれたか忘れたけれど
そのひとはぼくにこう言った。

決して見せてはいけないよ。





ぼくが持ってたぼくのものが
誰かがくれたものになっていた。

ぼくが見ていたぼくのものが
ぼくにも見えなくなっていた。


そんな誰かはどこにもいない。
そんな何かはあるはずもない。

確かにぼくはそれを持ってた。

ないけどあるものを
いつもポケットにしのばせて

力いっぱい
にぎりしめて生きていたんだ。








【テーマ・ほけんたいいく】


夢をみている途中で
それが夢だと気づくと
途端に興ざめしてしまうと
書いたことがあります。

夢だとわかって見る夢
それを「明晰夢」というそうです。

最近初めて知って
驚きました。

それで初めて気がついたのですが
わたしは夢について人間が
これまでに研究してきたことに
まるで無知なんです。

考えてみれば
夢を見るという古来から
人間に備わった現象について
研究の手がついていないはずは
ないのですよね。

何となくはわかっていながら
興味関心がそちらには
いままであまり向いていなかったことに
改めて気がつきました。

夢という現象が
研究の対象としてどんな様子なのか
ということと

夢という現象が
わたし自身にとってどんなものであるか
ということの間には

これまで全く有益な関連性は
感じられていませんでした。

自分の夢を自分がどう扱うか
それだけが考え事だったのです。


けれども、最近になって
夢という現象が
わたしの枠からはみ出して
現実の方へ架かってきたときに

ほかのみなさんが
夢についてどうな風に
感じているのか
気になるようになってきました。

そこで
少しずつ調べていると
なかなか面白いことが
わかってきた気がします。

「わたしが夢を見る」という現象について
わたしがこれまで感じてきたことに対し

なにか安心するような
納得につながるような
ものではありません。

むしろ、逆説的に夢という現象が
どんなに調査の手を入れようとも
文字通り手に触れることの叶わない
眼球に見えないものであることを

確かな事実にしてしまうような
乱暴な印象を受けてしまいます。

夢占いのような
マイルドなものから
夢を「分析」するような
一見科学的な語り口のものまで

たくさんあるようですから
これからは少しずつ
これまで成されてきた
人間の「夢」への興味関心の足跡や
「夢」に抱いた夢、ロマンみたいなのを

知っていこうかなと
思いました。



「明晰夢」を見るために
訓練している人もいるようです。

見たい夢を自由に見ることができれば
夢で欲求が満たされて
現実の日常がよい方向に向くというのは

本当のことだと思います。

でもそれは
わざとに見る夢がそうしてくれているのでなく

結果的にその人が
自分の夢を大切に扱うように
なったからだと
わたしは思いました。

少なくとも
わたしにとって
見ようとした夢が本当に見られることは

気持ちのよいものではありません。

明晰夢はひとを廃人にする
などというくだりもありましたが

夢の扱いを間違えれば
それも当然のことと思います。


けれども動機はどうあれ
夢を大切にすることは大事かな
と思います。

ふだんは忘れてしまっているだけで
毎晩みているはずの夢を
突然ていねいに思い出そうとすれば

悪夢の数がふえるのは
ごく当たり前ですし

悪夢を怖がっていた時期もありましたが
悪夢を悪夢たらしめているのは
起きているときの常識のほうですから

夢にも、夢を見た自分にも
悪だの正義だのを判別するような必要もなく
よって何の罪もないのですよね。

夢は夢。

しかしそれは決して
夢と現実を区別するという
意味ではないのです。

現実とガッチリ何処かで繋がり
切っても切れない関係と
何処かで知っているから

夢を占ったり
夢を分析したり
したくなるというものです。

それなのに、夢は夢。

面白いですね。