【テーマ・こくご】


幾千もの欠片に砕かれた
ピースの山に埋もれていた。

そこが始まり。

気がつけば欠片をつなぎあわせる
そのことが人生だと思っていた。


ひとつ組み合わせれば雨が降り
ふたつ組み合わせれば風が吹いた。

みっつ組み合わせれば嵐になり
いつになったら完成するのか

誰にもわたしにもわからなかった。


あるときこころの嵐も止んで
いつになく大きな塊ができた。

誰かの足ができあがり
誰かの背中ができあがり
肩まで組み合わせたそのときに

顔を見るのが怖くなって
合わせたピースを砕いてしまった。


あるとき嵐に立ち向かい
歯を食いしばって組み立てた。

どこかの山がそり立って
深い河が流れだし
沈没船を見つけたそのときに

つむじ風が襲ってきて
合わせたピースは砕けてしまった。


幾千もの欠片に囲まれて
幾歳もの時間が過ぎた。

すべての欠片に触ったけれど
描かれた絵を見ることはできない。

どんな欠片がどんなところに
隠れて潜んでいるのかも

どの欠片とどの欠片なら
まぶしい景色になるのかも

どの欠片とどの欠片なら
さみしい景色になるのかも

もう分かるようになったけれど

幾千もの欠片に砕かれた
ピースの山に囲まれて
わたしはいまも始まりのまま。

人生が先に進まない。



そのとき嵐がやって来た。

横殴りの雨はわたしのなかから
まぶしい景色になるはずの
欠片を乱暴に弾き出し

竜巻はわたしのなかから
さみしい景色にになるはずの
欠片を散らして拐っていった。

雨水はやがて大きな川になり
濁流は残る欠片をすべて呑み込み
何処か遠くへいってしまった。

わたしの叫びは風にかき消え
わたしの願いは雨に濡れた。

幾千もの欠片が消えていった。
幾年もの時間が消えていった。

すべての始まりが消えていった。

始まりをなくしてわたしも消えた。




始まりが消えて嵐も消えて
わたしがそこから消えたとき

懐かしい景色が広がった。

まぶしくさみしいその景色は
幾千もの欠片を組み合わせた

あの絵の景色に違いない。

何をもっても砕かれることのない
始まりの前の終わりの景色が

まぶしくさみしく
ただ何処までも広がっていた。






【テーマ・りか】


出先からの帰り道
娘が驚きの声をあげました。

「なにあれ!」

娘の視線の先に浮かんでいたのは
東の空にぽかんと映る満月。

正確には満月の翌日の月。

晴天の日没後
東の空にひときわ大きく
赤く光る月のすがたを
見ることがあります。

わたしが初めてその月を見たのは
小学生のときでした。

日没間際でまだ辺りは明るく
ひとりで通学路を
家に向かって歩いていました。

ちょうど自宅の方角の低い空に
その月のすがたはありました。

それまで月だと思っていたものを
完全に否定させるようなそのすがたは
いかにも宇宙空間の地球外物質らしく
異様な印象をわたしにに与え

橙色に染まった丸い未知の物体に
わたしは恐怖を抱きました。

世界が終わる前触れ…
冗談でなく本当にそう思いました。

想像もできないような不吉なことが
起こるに違いないという実感。

子どものわたしに想像しうる
最も不吉なこととは死でした。

未知の体験をしたあとも
そのことは誰にも言わず
その記憶はわたしの片隅でずっと
語られるのを待ち続けていたのです。



地平線に近い低空に見える月が
大きく見えるのには
諸説あるようです。

大気の層に対する光の入射角の関係で
光の屈折度が変わると
見かけの月の大きさが変わるとの説もあります。

赤く見えるのはそのためで
大気の層を斜めに横切るほうが
透過する層が厚くなるので
太陽の七色光線のうち波長の短い青い光は
途中で塵や水蒸気によって散乱してしまい

わたしたちの目に届くのは
波長の長い赤い光なのだそうです。

街路樹や街並みなどの
景色と対照させることで
近いところにあると錯覚して
大きく見えるという説もあり

じつは月の大きさは
天空のどこにあっても
変わっていやしないのだといいます。

想像もできないような遠くにあるものが
大きく見えるはずはない、
そう脳が情報処理してしまい
頭上高く星々の合間に浮かぶ月は
小さく見えるのだとか。

要するに人間の錯覚なのだという話です。



けれども

それが錯覚であれなんであれ
あそこのあの空に浮かぶ月は
見知らぬすがたで存在している。

そう見える。

その月のすがたに
幼いわたしは死を予感して怯え
わたしの娘は驚愕の声をあげる。

その事実になんの変化もありません。

帰宅直後わたしと娘は
留守番していた息子を連れ出し
もう一度その月を眺めに出掛けました。

息子の台詞もまた娘と同じ
「なにあれ!」

月だとわかって見ているというのに
なにあれ、とは、これいかに。

三人で不思議を共有した
わずかな時間でしたが

この経験は
わたしのなかに燻っていた
あの日の恐怖の記憶を語らせ

生々しいままに凍っていた
恐怖を柔らかく癒してくれました。



信じているものが錯覚であることも
錯覚であるものを信じることも
どちらも生きる上で避けることはできません。

錯覚であることが証明されたとしても
錯覚することをやめられない
生物的な事情があることも多いです。

錯覚は第六感に通ずる
人間にとって大事な感覚だと
わたしは考えています。

ほかの五感が物質に依存するのに対し
錯覚は個人的なものでありながら
同時に人類が無条件に共有する
精神世界を覗かせてくれる気がします。


東の空に浮かぶ
ひときわ大きく赤い月は

その数時間後には天高くのぼり
神々しい光を地上に放って
孤独に輝いて見えました。
















【テーマ・ひるやすみ】


珍しく週末に
映画を二本観ました。

自宅でビデオでですが
映画を観るには最低一時間半は
必要ですから

なかなか思いきれないのです。


たまたま今回
ふたつの映画には
ちょっとした共通点がありました。

どちらのおはなしも
最後に主人公クラスの人物が
殺されて死んでしまうのです。

「ペイ フォワード」では
年端もいかない少年が
「華麗なるギャツビー」では
華麗なるギャツビー自身が

おはなしの最後に
死んでしまいました。

映画に限らず
小説でも漫画でも芝居でも

物語の最後に
主人公が死んでしまうのは
わりとよくあることですが

(ギャツビーの方は本でも
むかし読んだことがあるはずですが
よく覚えていなかったみたいで)

どうして書き手は
最後にその人物を
死なせてしまったのか

いつも考えてしまいます。


仮想や空想の世界であっても
死は限りなくショックですから

死を以て喚起されるものがあるとしても
もっと他の方法でどうにかならないのか

主人公のいのちを絶つことで
あとに何が繋がっていくのか

いつも考えてしまいます。


最近の映画は
死のシーンが親切でいけません。

撃たれたり刺されたりした
傷から血が流れてるのを
ちゃんと見せてくれたり

青ざめて動かない様子を
丁寧に表現してくれますが

そこまで視覚的に訴えてくれなくても
死んでしまったことはわかります。

むしろ視覚的描写が細かすぎると
恐怖で想像力がきかなくなって

死んだことの意味を考えるところまで
気がきかなくなってしまうことも多い。

もっとも
死の意味をどうのというより
死の表現そのものにインパクトを
もたせることのほうが
作り手にとって重要な場合も
あるのでしょうけれど。

先日「カサブランカ」も観ましたが
あれも最後に撃たれて死ぬひとがいますが

ぱん、と音がして
ひとが倒れて
誰かが「殺された!」と台詞を言えば

撃たれて死んだことは
血を見なくてもわかるんですよね。

効果音と台詞だけで成り立つわけですが
作り手や多くの観客にとって
最近はそれじゃきっと
ダメになってきてるんでしょうか。


いずれにしても
主人公クラスの人物が
亡くなってしまったあとにも

考える自分が残ります。

映画なんだから当たり前ですが
その当たり前が何だか不思議です。

映画ではない現実のことでなら
わたしはそれを当たり前だと思うだろうか。

見知らぬ誰かが
殺されたニュースを見たあとは?

身近な誰かが
死んでしまったそのあとは?

よもや自分自身が
殺されたとしたらそのあとは?



映画そのものは
それとして楽しんで観ますが

そのあとどうしても
いろいろと考えてしまうのでした。