【テーマ・こくご】


あるひとはぼくの
名前さえ知らない

そのひとにとって
ぼくは名無しの権兵衛

ぼくは肩をつかまれて
とっさに振り返った

名もないぼくには
そのひとにとっては顔もない

彼は悲鳴をあげて
ぼくのもとから去っていった




あるひとはぼくに
勝手な名前をつけた

そのひとにとって
ぼくはあるべき英雄か極悪人

ぼくは聞き慣れない名前を呼ばれて
不思議と振り返った

名にそぐわないぼくの顔は
そのひとにとってはないも同然

彼は得意気になって
ぼくに目鼻を書いて高く笑った




あるひとはぼくの
名前だけは知っていた

そのひとにとって
ぼくはあるべき旧知の友人

その名を呼ばれてぼくは
振り返るのをためらった

名だけを呼んでぼくを呼ばない
そのひとはぼくには友人ではない

彼は深い悲しみに暮れて
顔のないぼくを呪って恨んだ




あるひとはぼくを
のっぺらぼうだと言う

そのひとにとって
必要な顔をぼくが持っていないから

だけどぼくには
ぼくの顔なんか見えやしない

あなたが覗いてくれなけりゃ
あなたが映してくれなけりゃ

ぼくに顔があるかどうか
ぼくにわかるはずがない




笑って欲しいひとに笑って
負けて欲しいひとに負けて
尽くして欲しいひとに尽くせば

彼らにはぼくの顔が見えてくる

だけれどそれは
ほんとうは彼らの顔であって

ぼくの顔ではないのだろう




ぼくの名前さえ知らないあのひとも
ぼくに名前を勝手につけたあのひとも
ぼくの名前しか知らないあのひとも

みんなぼくにはのっぺらぼうだ

ぼくを見ている目もなくて
ぼくを嗅ぎつける鼻もなくて
ぼくに語りかける口もない

ぼくをひとりぼっちにしたくせに

もともとみんなひとりぼっちの

鏡のようにつるんとした
のっぺらぼうたちだったんだ






【テーマ・どうとく】


生活のなかで断捨離を
意識するようになってから
ずいぶん経ちます。

はじめのうちは
断捨離にはサイクルがあり
捨→断→離
というイメージがありました。

まずは己の余計なところを捨てて
必要のないものごとの侵入を断ち
欲望から離れて暮らすようになる

そんなイメージでした。

けれども
仮にそのサイクルがあったとすると
わたしは何年たっても
捨の段階から全く進んでおりません。

まだまだ
捨てる作業の途中でしかありません。

捨てても捨てても
入ってくるものがある。

むしろ
捨てるほどに
入ってくる。

それら否応なしに
入ってくるものを眺めながら
捨てつつ断ち
断ちつつ捨て

離はサイクルから
つまはじきにされてゆくのを感じます。

数式っぽく表すと

離(断±捨)

こんな感じでしょうか。

断と捨のやり取りを
離が包括しているという関係ですが
分配法則で
断×離±断×捨

三つ巴で断捨離とは
なかなかならないのです。

高校の数学の先生が
「数学はある時点から哲学に変わる」
と言ったのをずっと覚えているのですが

その台詞のほうに
納得のいく今日この頃です。



捨にまつわる思いのいろいろを
また書いてみようかな

と思い①としました。



【テーマ・おんがく】


ピアノのレッスンに
通わなくなってから
半年以上経ってしまいました。

先生のところへ通えないのは
多忙が原因ではありますが

日々の練習がおろそかになったのは
多忙は原因になりません。


昨夜久しぶりに
電子ピアノの蓋を開けましたが
指の固いことといったらない。

思う存分練習ができるときと
そうでないときの
断続的な繰返しを継続といってよいのか

継続というのは
どんな状況であっても
細やかに流れを切らさず
続けてゆくことをいうのではないか

再開があってはならず
いや現象として再開など
起こり得ないのではないか

などと考えさせられました。



継続する時間内において
起こり得るすべての出来事は
現象として断絶はあり得ない。

区切れを感じるのは
意識や記憶がそうさせているのであって
物事が途切れるということは
実はないのではないかと思う。

意識や記憶がそうさせることの理由は
失われた時間に対する落胆や
失わせた自分に対する嫌悪や
そうした負の感情を緩和して
継続のモチベーションを高めるため。

そのための無意識的な
自己弁護のような気がします。

考えてみれば
これまでの人生の中で
完全な不本意で物事が終わったことなど
一度たりともありません。

踏ん切りをつけたり
忘れようと努めたり
諦めてしまったり

すべて最終的には
自分自身の意識が終わらせたことばかりです。

再開や再会の可能性があっても
自らその機を逃しているだけで
チャンスが訪れないのではありません。

生き物の死ですら
わたし自身が終焉と決めつけること以外に
どう捉えることができるでしょう。

生きているうちは
死んでみることはできないのですから

わたしが死んだものに関係できなくても
死んだものがわたしに関係していないと
どうして分かることができるでしょう。

継続とは
自分の都合で続けることのようで
実は自分の意思では操作できない
脈々とした流れそのもの

自分勝手に途切れさせることなど
実ははなから叶わないものなのでは
ないだろうかと思いました。




話をピアノに戻しますが

練習の継続という意味では
これを成させるのは
自分の努力以外にありません。

同じ継続でもちょっと違う。

ああ、言葉とはなんて難しいのでしょうね。


練習をしなかった時間つまり
練習の継続を怠った時間は
大きな継続の中で断絶として認識され
わたしを落胆させるのですが

断絶の認識はまた大きな継続の中でしか
認識すらされないものであり
いつでも継続可能な流れの中にあるからこそ
断絶として反省され再開ができるのです。

少なくとも
ピアノを弾き続けるということは
わたしが生きていることが前提で

踏ん切りをつけたり
忘れようと努めたり
諦めてしまったりして

たとえ意識や記憶が
継続を途切れさせようとしても

わたしが生きている限り
継続可能な、いや、
意思とは関係なく既に継続されている
ひとつの現象であるように思います。



あれこれ考えますが
結果として
指が動かないのは動かぬ事実!

バッハのインベンションのなかで
お気に入りの13番と14番を
繰返し何度も練習してみました。

練習に対する本番がない以上
練習とはいつだって本番ですね。

ベートーベンのピアノソナタ第5番は
結局まだ1楽章しか満足に弾けませんが

ちょっとロンドに浮気しつつ
ロマン派にもちょっと浮気しつつ

せっかく与えられた大きな継続の流れに
自ら醜い穴を空けてしまわないよう

日々の本番あるのみかな

と思いました。