【テーマ・しゃかい】



気候に雨季と乾季があるように
季節に冬と夏があるように

ひとりの人間にも
インプットの時期と
アウトプットの時期が
あるように思います。

目に映るあらゆるものが珍しく
耳に聴こえるあらゆるものが興味深く
まるで自分のために差し出された
美味しいお料理のように

すべてをたいらげてしまいたいという
本性から涌き出る欲求を
抑えきれないインプットの時期。

目に映るあらゆるものがうっとおしく
耳に聴こえるあらゆるものが煩わしく
まるで世界中から嫌われたから
世界を厭がるよりしかないような

取り残されそうな疎外感から
生き残るための本能を発揮するより
ほかに方法のないアウトプットの時期。

今この瞬間という時期は
そのどちらか一方に
傾いているように思うものです。

雨季と乾季が同時には訪れないように
冬と夏が一緒にはやってこないように

ゆらゆら代わりばんこに巡りながら
螺旋のように時間が進んでいく
そんな風に思うものです。


でも
ちょっと違うような気もします。

雨季あらば乾季あり
夏あらば冬あり

巡るようでいて
それらは共にあるもの

のような気もします。



音楽を聴いて自然に
鼻歌が溢れるような

大きく吸えば
深く溜め息に変わるような

仰ぎ見て
地に足がつくような

インプットもアウトプットも
結局おんなじことなのかな

と思います。



天気であることに変わりなく
季節であることに変わりなく

生きていることに変わりないのですから。









【テーマ・りか】


むかし理科室で
酸とアルカリを反応させて
中和する実験をしました。

ほとんどの日本人は
子どものころ
やったことがあるのでは
ないかと思います。

性質の違うものが
混ざり合うとほどよく馴染んで
いい感じになるのは
理科的なことばかりではないですね。

中和とは
化学反応を離れたところでも
深く人間の感性に浸透している
気がします。


さて

理科の実験では
何と何を反応させたのか
記憶は定かではありませんが

水酸化ナトリウムと塩酸か
炭酸水素ナトリウムと酢酸か

そんなあたりでしょうか。

リトマス試験紙をつけて
色の変化を観察するの
好きでした。

けれどもあれ以来
中和を意識して実際に行ったことなど
なかったように思います。



突然ですが
数ヵ月前に市販の合成シャンプーの使用を
やめてみました。

石鹸素地が原料の
安価ですがシンプルな固形石鹸で
いまはゴシゴシ髪を洗っています。

キシキシ、パサパサの時期が過ぎて
だいぶ慣れてきたところですが

最近、リンスとして
クエン酸を使用しています。

石鹸でアルカリ性に傾き
キューティクルが開放されている状態を
酸で中和しキューティクルを
引き締めるのが目的です。

頭皮で感じる化学反応。
それは一瞬の出来事でした。

自宅の狭い風呂場で
まるで理科室で実験しているように
ワクワクしました。

中和、素敵な反応です。

こんな風に化学反応を身近に
意識して感じたことなど
今までなかったと思います。




生活のなかや
人生のなかで

中和を意識して暮らすということは
実はとても大切なことではないかと
いまは感じています。

和洋折衷
折衝和解

混ぜてみないと
どうにもならないことが
世の中にはたくさんあります。

そして

反応後
水酸化ナトリウムはもはや
水酸化ナトリウムではなく

塩酸はもはや塩酸でない

そのことが重要かと思います。


洗髪ひとつから
Ph7の人生を目指したいと思いました。








【テーマ・どうとく】


ひとは傷つく。

こころが傷つけられたとき
名誉が傷つけられたとき
プライドが傷つけられたとき

「傷ついた」として
ときに悲しみ
ときに怒る。




かたちあるモノには傷がつく。

もしもこころというモノがあるなら
もしも名誉というモノがあるなら
もしもプライドというモノがあるなら

なるほどそれらには傷がつく。

傷をつけるためには
傷つけるモノも存在する。

もしも態度というモノがあるなら
もしも言葉というモノがあるなら
もしも悪意というモノがあるなら

なるほど傷をつけることもできる。

こころ
名誉
プライド

態度
言葉
悪意

それぞれ存在しているならば
なるほど恐ろしい傷つけ合いになるだろう。

それら傷つき傷つけるモノが
「自分」と別個に存在するならば
世にも恐ろしい傷つけ合いを
「自分」は眺めることになるのだろう。


けれども


「自分」なきところのどこに
それらが存在するというのか。

自分と無関係なものに存在を許したら
その存在を認識する自分は何者なのか。

そんな現象がはたしてありうるか。

あると仮定してそれを証明するのは
自分以外の何者が行うというのか。


すべてを「自分」から切り離して

こころに形をもたせ
名誉に形をもたせ
プライドに形をもたせ

それらを自ら所有し

態度に形をもたせ
言葉に形をもたせ
悪意に形をもたせ

それらを他人に所有させ

互いを争わせているというなら

どの傷に誰が悲しみ
どの傷に誰が怒るというのだろう。


かたちなきものに
形をもたせた時点で
自分とそれが一体であることを
すでに放棄しているのに

こころが傷つけば自分が傷つき
名誉が傷つけば自分が傷つき
プライドが傷つけば自分が傷つくと

なぜ思うのだろうか。

態度を捉えた他人が反省し
言葉を放った他人を非難し
悪意を挫いた行いに正義を感じると

なぜ救われるように思うのだろうか。

一体誰が救われるというのだろう。



しかしながら
ひとは傷つく。

傷がもとで悲しみ
傷がもとで怒り狂う。

それがかたちなきものの傷への
手当てであるからだ。

同時に

そうであっても
ひとは傷ついたりはしない。

かたちなきものに
決して傷などつきはしない。

かたちなきものに形など与えず
見えないものを見ようなどとせず

決して己から手放すことさえしなければ

傷などつきようもない。
手当てのしようもない。





これは果たして何か。

赤いまるだと決めてしまえば
いつか黒くなったときに己が傷つく。

わたしのモノだと決めてしまえば
一度手放して敢えて所有することになる。

所有に形をもたせて奪い合えば
なるほど恐ろしい傷つけ合いになる。


これは果たして何か。
何かと考えているのは誰か。

その問いに関わっている限り
ひとは誰も
傷ついたりしないのではないだろうか。

ひとは誰も
怒ったりしないのではないだろうか。