【テーマ・ひるやるみ】
いままでで初めて、映画を観る前に原作を読みました。
思い出のマーニー。
子どもたちと一緒にやっと観に行くことが出来ました。
ゲド戦記やハウルの動く城は原作を読んでいませんし、実はあまり読みたいとは思わなかったのですが、どういうわけか思い出のマーニーだけは、読むのが必然であるかのように自然に本に手が伸びました。
今日、映画を観て、その理由がわかった気がしました。
誰もが知っている普遍のストーリーというのがあります。
けれどもそのストーリーは、抱いている人ひとりひとり形が違っていて、その人によって扱い方も違っています。
しかも日常のなかでは、目まぐるしい変化の連続と生活の多忙さに阻まれて、ほとんど浮上してくることもありません。
ある人にとっては思い出の中に封じ込めた経験であり、ある人にとっては遠い昔に聞きかじったおとぎ話であり、またある人にとっては存在すら気づかない古い記憶であったりするのです。
最近のジブリ作品は、誰もが同じように潜めているのに千差万別のそのストーリーを、さりげなくなぞってくれる優しさと巧みさがあるように感じます。
忘れていたなにかを思い出したような、でもそれがなんなのかハッキリとはわからない、そういうこころの深い場所での共感を与えてくれている気がするのです。
かぐや姫の物語のときは、文字通り誰もが知っている物語を語ることで、観た人ひとりひとりの個人的な感情を刺激しているような感じがしました。
思い出のマーニーはそれとは正反対に、初めて触れるはずの物語のなかに、既に知っているモチーフを観た人がそれぞれ拾い上げることによって、デジャブのような感覚を通じて個人の深い深い部分に斬り込んでくるような刺激を感じました。
いずれにしても、普段疎かにしている自分の本質をつかれたような感想を抱かされるので、意外性や高揚感で娯楽を得ようとする人にとっては、感動が違和感となって残ってしまう場合もあるのではないかと思います。
現に身近で、最近のジブリは面白くない、という声も聞きます。
けれどもわたしは、ジブリ作品に、どんな人にも分け隔てなくまっすぐに語りかけてくる誠実さ、いたずらに感情を煽って愉快にさせようという思惑がなく架空の事実を淡々と描くことによって、それ以上分けることの出来ない原子とか素粒子、あるいは自らの意思ではどうすることも出来ない遺伝子のレベルで、わたしにしっかりと寄り添ってくれるような温かさを感じています。
なにかを得たような確かな手応えを感じながらそれがなにかわからず、教えられた気もしなければ自ら学んだ気もしない。
気づかされる、という究極の伝授方法で、古くて新しいなにかを与えられた気がするのです。
わたしたちは、日常生活のなかでいつのまにか、生活の技術とこころの有り様を分離させてしまうところがあります。
自然発生的な感情で思いやることも、コミュニケーション能力であるかのように扱い、他人や自分に誤った評価を下してしまったり、道徳や心得を目標のように掲げるだけで満足してしまったり、気持ちに蓋をして気丈に振る舞うことを自分に強制したりしてしまうところがあります。
無事に生活するための技術と、人間として幸せに生きるための行いが、いつのまにか別々のものになってしまうのです。
もともと同じであるものが二極化した硬直状態をかき混ぜて、再び混沌をもたらすのが物語です。
全てが混ざり合い同じであるがゆえに、何から何が生成されるか予想も出来ない混沌から、感動や幸福が生まれます。
もともとあるものの中から、まるで新しいものであるかのように、感動や幸福が目に見える形となって抽出される様を実感するのは、心地よいものです。
しかし、一度混ぜた水と油が分離するように、幸福を分けた分だけ残りが不幸となって分離していきます。
希望を分けた分だけ残りが絶望となり、夢を分けた分だけ残りが冷たい現実となり、楽しさを分けた分だけ残りが寂しさになります。
そうやって分けていく過程の法則こそ誰もが知っている普遍のストーリーであり、それを思い出すことが唯一再び全てをかき混ぜることのできる方法であると、わたしは考えています。
思い出したときにはもう忘れている、そのストーリーを、思い出のマーニーのなかに感じました。
映画館を出たときには、せっかくかき混ぜたものも再び分離を始めてしまっていたとは思いますが。
思い出したときには忘れている
忘れているからこそ思い出せる
それはつまり
いつまでもずっと覚えているということ
永遠に忘れないということ
わたしの中にも、誰の中にも、マーニーはいるのだと思います。
いままでで初めて、映画を観る前に原作を読みました。
思い出のマーニー。
子どもたちと一緒にやっと観に行くことが出来ました。
ゲド戦記やハウルの動く城は原作を読んでいませんし、実はあまり読みたいとは思わなかったのですが、どういうわけか思い出のマーニーだけは、読むのが必然であるかのように自然に本に手が伸びました。
今日、映画を観て、その理由がわかった気がしました。
誰もが知っている普遍のストーリーというのがあります。
けれどもそのストーリーは、抱いている人ひとりひとり形が違っていて、その人によって扱い方も違っています。
しかも日常のなかでは、目まぐるしい変化の連続と生活の多忙さに阻まれて、ほとんど浮上してくることもありません。
ある人にとっては思い出の中に封じ込めた経験であり、ある人にとっては遠い昔に聞きかじったおとぎ話であり、またある人にとっては存在すら気づかない古い記憶であったりするのです。
最近のジブリ作品は、誰もが同じように潜めているのに千差万別のそのストーリーを、さりげなくなぞってくれる優しさと巧みさがあるように感じます。
忘れていたなにかを思い出したような、でもそれがなんなのかハッキリとはわからない、そういうこころの深い場所での共感を与えてくれている気がするのです。
かぐや姫の物語のときは、文字通り誰もが知っている物語を語ることで、観た人ひとりひとりの個人的な感情を刺激しているような感じがしました。
思い出のマーニーはそれとは正反対に、初めて触れるはずの物語のなかに、既に知っているモチーフを観た人がそれぞれ拾い上げることによって、デジャブのような感覚を通じて個人の深い深い部分に斬り込んでくるような刺激を感じました。
いずれにしても、普段疎かにしている自分の本質をつかれたような感想を抱かされるので、意外性や高揚感で娯楽を得ようとする人にとっては、感動が違和感となって残ってしまう場合もあるのではないかと思います。
現に身近で、最近のジブリは面白くない、という声も聞きます。
けれどもわたしは、ジブリ作品に、どんな人にも分け隔てなくまっすぐに語りかけてくる誠実さ、いたずらに感情を煽って愉快にさせようという思惑がなく架空の事実を淡々と描くことによって、それ以上分けることの出来ない原子とか素粒子、あるいは自らの意思ではどうすることも出来ない遺伝子のレベルで、わたしにしっかりと寄り添ってくれるような温かさを感じています。
なにかを得たような確かな手応えを感じながらそれがなにかわからず、教えられた気もしなければ自ら学んだ気もしない。
気づかされる、という究極の伝授方法で、古くて新しいなにかを与えられた気がするのです。
わたしたちは、日常生活のなかでいつのまにか、生活の技術とこころの有り様を分離させてしまうところがあります。
自然発生的な感情で思いやることも、コミュニケーション能力であるかのように扱い、他人や自分に誤った評価を下してしまったり、道徳や心得を目標のように掲げるだけで満足してしまったり、気持ちに蓋をして気丈に振る舞うことを自分に強制したりしてしまうところがあります。
無事に生活するための技術と、人間として幸せに生きるための行いが、いつのまにか別々のものになってしまうのです。
もともと同じであるものが二極化した硬直状態をかき混ぜて、再び混沌をもたらすのが物語です。
全てが混ざり合い同じであるがゆえに、何から何が生成されるか予想も出来ない混沌から、感動や幸福が生まれます。
もともとあるものの中から、まるで新しいものであるかのように、感動や幸福が目に見える形となって抽出される様を実感するのは、心地よいものです。
しかし、一度混ぜた水と油が分離するように、幸福を分けた分だけ残りが不幸となって分離していきます。
希望を分けた分だけ残りが絶望となり、夢を分けた分だけ残りが冷たい現実となり、楽しさを分けた分だけ残りが寂しさになります。
そうやって分けていく過程の法則こそ誰もが知っている普遍のストーリーであり、それを思い出すことが唯一再び全てをかき混ぜることのできる方法であると、わたしは考えています。
思い出したときにはもう忘れている、そのストーリーを、思い出のマーニーのなかに感じました。
映画館を出たときには、せっかくかき混ぜたものも再び分離を始めてしまっていたとは思いますが。
思い出したときには忘れている
忘れているからこそ思い出せる
それはつまり
いつまでもずっと覚えているということ
永遠に忘れないということ
わたしの中にも、誰の中にも、マーニーはいるのだと思います。