【テーマ・おんがく】


もうかれこれ一年ほど
アコースティックピアノに
触れていません。

娘がピアノを辞めてから
わたしも先生のお宅に
なかなか行かなくなって
しまいました。

日頃自宅の電子ピアノを弾きながら
いまこの演奏をそのまま
グランドピアノで弾いたら
きっとバラついた汚い音が
部屋いっぱいに広がるのだろうな

などと
いつのまにか思ってしまっていることに気づき
とても悲しい気持ちになってしまいます。


とくにフォルテのとき
そう感じてしまう。

その理由を考えてみました。


フォルテというのは
強い大きな音を要求する
音楽記号ですが

そもそも強く大きな音を
ピアノで出すには
どうすればいいのでしょう。

もちろん
腕や手に渾身の力をこめて
鍵盤を思い切り叩けば
大きな音は出ます。

けれどもそれではだめです。

不思議なもので
筋肉のこわばりは
そのまま音に表れます。

ただ筋肉を収縮させて
力一杯鍵盤を叩いても
響きのない濁った音になってしまう。

力と一言でいっても
弦に大きな力を加えるには
ハンマーが弦を叩くときの
加速度が必要なのです。

重力と腕の質量に任せて
鍵盤に腕を降り下ろすように
鳴らすときの音と

指の骨格を固定させ
短い移動距離で瞬発的に鍵盤を
押し込むようにして出す音は

同じフォルテでも
全く質の違う音になることを
遠い昔の経験で知っています。

けれども
弦もハンマーも存在しない
電子ピアノでは
その違いは
想像するしかない。

その事実が
わたしに悲しい妄想をさせるのでしょう。

アコースティックで弾いたら
ひどい演奏になるに違いない、と。


そろそろ日々の忙しさを
言い訳にするのはやめて
ピアノの先生のところへ
行ってみよう、行かなくちゃ
弾かなくちゃだめだ

そう思いました。



ところで

フォルテの奏法や実際の音の響きを
脳内で妄想していて気がついたのですが

やはり

音楽と数学、自然科学とくに力学には
深い深い繋がりがありますね。

ピアノを弾きながら
アイザック・ニュートンや
ジェームズ・プレスコット・ジュールの
顔がちらついたことなんて
いままではありませんでした。

振りかざした腕に蓄えられた
位置エネルギーは
運動エネルギーとなって鍵盤に伝わり
そのエネルギーはそのまま音となって
聞いた人のこころに届いたとき
また別の大きなエネルギーになります。

空気を伝った震動は
そのままこころの震えとなり
それは感動と呼ばれ
生きる勇気というエネルギーに
変わることだってあるでしょう。


もしもわたしが
毎日当たり前のように
アコースティックピアノに触れていたら

実際に出てくる音ばかりに気をとられ
エネルギーの変換だとか
フォルテの伝える感動だとか
そんなことには
まったく気づかずにいたかもしれません。

リストの類稀なる大きな手も
ショパンの小ぢんまりした手も
天才が持って生まれた道具としか
思えなかったでしょう。

彼らの手が自然科学と結ばれたとき
どんな奇蹟が起こったのかを
妄想するのは実に楽しいです。

エネルギー保存の法則は
わたしにとっては
いのちの保存の法則と言い換えても
なんら違和感ありません。

ニュートンとジュールと
リストとショパンが
あたまのなかでクルクルと
一緒にダンスをしているような

そんな想像にふと笑ってしまったとき

目の前にあるのが
電子ピアノであることくらい

どうでもよくなりました。


が、


やっぱり、近々
ピアノの先生に連絡してみようとは
思っています。













【テーマ・架空日記】


記憶にすら残らないほど
何かに急かされて慌てて家を出る
そんな朝ばかり繰り返している。

だからいつの間にか
天気予報を確認することさえ
しなくなった。

玄関の扉を開けて
空気が乾いて明るければ
そのまま駅まで駆けていく。

傘など持たない。

「傘は持った?」
懐かしい掛け声も
いまはもうない。

降るなら降ればいい。
濡れるならそれでいい。

そんな気持ちに支配されて
雨の刺す冷たさもいつしか
体に届かなくなった。


瞬く間に辺りが暗くなり
文字通り青天の霹靂が起こる。

突然泣き出したように雨が落ちて
嗚咽のような雷鳴が轟く。

星子、あなたも今日は濡れ鼠だった。


ムラサキの気まぐれに
振り回されているあなたも

この針のような雨の冷たさが
体に感じなくなっているのだろう。

雨に紛れて本当の涙を
流していることに
他の誰も気づかなかったとしても

私は違う。

もしも私が今朝は天気予報を確認して
もしも晴れていたって傘を持ち
駅までゆっくり空を眺めながら歩いていたら

星子、あなたをずぶ濡れになんか
させなかった。

人知れず雨に紛れて
ひっそり流す涙も
傾げた傘の下で渇いたこころを
ゆっくり伝う涙になれた。


星子、そんなに辛いなら
いつでも私があなたになってあげる。

どんなに晴れた朝にも
夕暮れの雨を予想して

必ず傘をさしてあげる。





【テーマ・どうとく】



約束は守るためにするものです。

それを約束と呼んだからには
守らねばなりません。

守る努力をするだけではだめです。

ならばできない約束はしない
というのもだめです。

できないと言うならそれは
そもそも約束ではありません。

できない約束などというもの自体が
この世のどこにもありえません。

しかしながら
約束は必ずしも
守られるものでもありません。

約束はときに
破られてしまうものです。

約束を破った者は
約束をした相手に
深く詫びねばなりません。

どんな言い訳もききません。
言い逃れは許されません。

では約束をした相手とは
いったい誰のことでしょうか。



それは友人であることもあります。
それは親や子であることもあります。
先生や上司、後輩や部下であることも。

けれども
どんな約束を誰としたとしても
その約束を破ったとき

その相手には
必ず同じ人物が存在します。

自分自身です。

あなたとの約束を守ると誓った
約束をしたそのときの自分との約束を
約束を破るときには破っている。

ややこしいですね。

ピンとこないですね。

誰かとの約束を破ったとき
謝罪の相手はいつも他人であって

自分との約束を破ったことに
ひとはなかなか気づかない。

過去の自分に対して
大きな裏切りをしたにも関わらず

自分への罪は
知らず知らず
許してしまっているからです。

約束を守れなくて
迷惑をかけた相手に詫びることはあっても

守ると決意したそのときの自分に
詫びることはありません。

罪悪感に苛まれたり
後悔して苦しむことはしても

自分に謝り
自分を許す
その過程を

意識してすることは
ほとんどありません。

傷ついた自分は
いつもほったらかしにされて
約束を破った未来の自分に
責められることはあっても

謝ってもらえることは
ほとんどないのです。


たとえ他人とは和解して
また仲良しに戻れても

自分自身と仲直りはしないのです。

自分との約束を
破ったことに気づかないから
仲直りする必要すら感じないのです。


でも


わたしは誰かとの約束を破るとき
わたしとの約束も破っています。

そのことに気づいて初めて

約束は守るためにするものだと
できない約束など存在しないと

ほんとうにわかった気がします。


誰かのために守るのだと思えば
正義感が満たされ気もよくなります。

自分のために守るのだと言えば
自己チューな印象で居心地が悪い。

けれども

約束は一人ではできない。

相手と

そして他ならぬ自分がいて

やっと約束があるのです。


ちっともややこしくありません。

ピンと来て腑におちます。



約束が破れるときわたしは

相手と同時に自分を裏切るのだと
肝に銘じたいと思います。

約束を守ることの大切さは
自分を大切に思うこころなくては
気づきようがないのです。