【テーマ・おんがく】


日々どことなく忙しく
なかなか記事を書けません。

生活環境や起きている事柄に
左右される時間的な忙しさというより
こころがせわしなく
揺れているからだと思います。

しかし以前のように
こころにさざ波が立つたびに
感情や言動がほとばしることはなく

結果的に記述による表現の機会が減ります。





こころの海からわき上がる感情が
水面にに現れることなく
わたしの内部でいつのまにか
凪ぎの海に戻っていく

そのことを
誰も「知る」ことはないけれど
なんだかみんなが
「知っている」ような気がする

それは孤独と呼ぶべきものだけれど
世のひとびとが忌み嫌う孤独とは
少しちがっている

あたたかく幸せな感覚であり
それでいて紛れもなく孤独である



そんな感じなのですが

ここに書けばきっと
誰かが読んでくれている

そういう気持ちになるのですから
仙人のようにその孤独とともに
生きることはわたしには
どうしても無理なようです。

もとより、孤独というのも
縁のなかにしか存在しない
相対的なものですからね。



さて標題の威風堂々ですが

先日ピアノ用にアレンジした
楽譜を手に入れました。

この曲はわたしの
クラシック音楽への入り口のような曲で

子どものころ
我が家に唯一存在した一枚の
クラシックのレコードに
入っていた曲です。

子どものころ
何度も何度も繰り返し聴きました。

辛いことや悲しいことに
うちひしがれたこころを
鼓舞してくるような曲だったのだと
いまなら思います。


成人してからほんの数年前まで
クラシックからも音楽からも
ずいぶん離れた生活を送っていましたが

再びこころに音楽が戻ったとき
真っ先に響いてくるのは
やはり子どものころに
没頭したことのある曲ですね。

YouTubeなどを駆使して
いろいろなオケの演奏を聴きましたが

あのとき聴いていた
あの演奏にはまだ再会できていません。


アレンジされた楽譜は
楽譜通りに弾けたとしても
オケ全部の音を拾えるわけでは
ありませんから

当たり前にあのとき聴いていた
あの演奏とは全く違うはずなのですが

こころに染み付いた
あの演奏を再現するには
自分で弾くしかないと思いました。

わたしの演奏は
聞くひと百人中百人が

オケの演奏とは全く違う!
どこが再現なんだ!
と、思うに決まっていますが
(当たり前です)

唯一わたしにとっては
あのとき聴いたあの演奏を
こころに取り戻す手段なのです。



近頃
子どものころのことに
想いを馳せます。

死期が近いのではないかと
笑ってしまうほどに。




愛の夢第3番も練習中です。








【テーマ・ほけんたいいく】



子どもの暮らしを眺めていると
時々胸が突かれるような
なんとも言えない感じを覚えます。

もしもわたしが現時点で
親として申し分ない技量を
持ち合わせていたとしても

どうしてあげることもできない

そういう状況下に
子どもが置かれていることに
気がついたときです。

子どもが抱える問題に
直接解決の手助けができない
いえ、むしろ
してはいけない

そういうときがあります。

そういうとき
苦境に立たされて
苦しい思いをしているのは
子どもであるにも関わらず

同時に親も大きな試練に
立ち向かわねばなりません。


子どもが自分自身で
問題の解決ができるように
自立させるとか

そんな上から目線の
レベルのことではありません。

子どもが
かつて経験のない大きな苦悩と出会って
かつてないほどにこころを疲弊させて
今まさに悩んでいるその瞬間を

親であるわたしが
邪魔をしてはなりません。

そして

問題に解決の兆しが訪れても
逆に放置して風化しようとしても

この先の長い長い時間のなかで
彼らがその経験を
思い出に変えて抱えていくのを

決して邪魔してはなりません。

邪魔をしてはならないけれど
目を離してもいけません。

子どもにとって
限りなく存在感のない

あって当たり前の空気のように
いて当たり前のものに
なるのです。

客観だけは存在を許しても
子どもの主観から存在が疎外されることに
親は踏ん張って耐えねばなりません。

わたしにとって
これは大いなる試練です。




いつか彼らが
苦い思い出を
忘れずに温めていたことに
ふと気づいたときに

思い出とともに
そこはかとなく漂う
懐かしい香り

親はそれくらいのものでしか
ありません。

香り、それくらいのものに
なれるかどうかも危うい。

気が遠くなるほど長く
気が触れるほど儚すぎる
子育てという不思議な時間。

子育てという言葉が
おこがましく感じるほど
わたしは本当に無力です。

それでも
揺るぎなく親子でいられる
その縁に感謝することだけが

我が子が苦い思い出を
傷つきながら抱えるさまを
見守ることを支えてくれます。

そして願わくは

この思いがいつか
彼らのなかでわたしを
懐かしい香りに
変えてくれますように。







【テーマ・ひるやすみ】


ここのところ
こころが荒れているなぁと
感じます。

もしもこころに触れられて
手触りを感じられるのだとしたら
きっとカサカサしているだろうと
思います。

2014年の夏ほど
夏を感じなかった年は
なかったように思います。

暑くなかったわけではありません。

暑気は正常に体感され
汗もたくさん滲みました。

なのに暑さをこんなにあっさり
忘れてしまえるのは
流した汗よりも
涙の方が多かったからかもしれません。


四季の中で
どの季節が一番好きかときかれたら
悩んだ末にきっと
夏だと答えると思います。

北海道の夏が好きでした。

少し肌寒さの残る初夏に
無理して半袖のシャツを着る。

年に一度あるかどうかの
カンカン照りの休日に
予定をひっくり返して
海へと向かう。

結局水着に着替える勇気もなくて
波打ち際で足もこころも拐われて

水浸しになって少し笑う。

木陰はひんやり涼しくて
空は深い群青色。

気づけば夏は終わっていて
心残りに残暑を感じて
少し寂しく思ったりする。

そういう儚い
北国の夏が好きでした。




東京の夏も経験しましたが
わたしの知る夏ではありませんでした。

けれどもここ数年
北海道の夏も
うだるような暑さに変わり

愛しい儚さは
失われつつありました。



しかし今年の夏は
あまりにも儚すぎた。

親しいひとの死が
わたしから
なにもかもを
奪おうとしていました。

体に感じる太陽光線も
わたしのこころに
届きませんでした。

頭では暑いとわかっていても
その暑さは
秋になっても思い出せるような
情緒への繋がりを持ちませんでした。

気象データは記憶に残っても
その数値は
秋になったら意味をなさないような
無味乾燥なものでしかありませんでした。

生身のからだを
機械のようにしてしまう

ひとの死がもたらすのは
からだとこころの
断絶であると
身をもって知りました。




臨終の瞳が
忘れられません。

あなたの目には
もうわたしは映らない。

わたしの目には
こんなにあなたが
焼き付いているというのに。


当たり前に生きていることが
実は不自然なことであると
改めて思い知っているのです。



けれども当たり前に生きています。

10月の雨は
刺すように冷たく
固くなった空気は
雪の日のそれを
彷彿とさせます。

わたしはまだ
生きているのです。