【テーマ・ひるやすみ】


職場が繁忙期を迎えました。

子どもの食事を中心とした家事と
仕事の両立にもっとも苦労する時期です。

ここしばらく
ピアノも弾けないし
数学も
連立方程式のセクションで
立ち往生しています。


3月は特別な季節です。



家事とも子育てとも
生計を立てるための仕事とも
無縁だった若いころから

3月は特別な季節でした。

別れを伴う節目であり
別れを生んだ出逢いを憂う
苦しく悲しい季節です。

なのに悲しみに向き合わず
出逢ったことへの恨みばかり
募らせてしまった若いあの頃

3月は大嫌いな季節でした。



いまもまだ
3月は忙しいばかり。

大切なことを後回しにして
それが仕方のないことであるかのよう。

わたしはいまだに
3月を心静かに送ることができません。



でも

きっとこうして
年度末の
冬から春への季節の変わり目に

忙しさや
悲しさや
名残惜しさや

自分の弱さや
大切な人達への思いを

強制的に集約してくれる
この3月という季節は

ありがたいのでしょうね。


突然訪れてもおかしくないサヨナラを
バッタリ出くわしても不思議のない悲しみを

こうして季節の中に包み込んで
桜吹雪になぞらって散らしてくれる

この特別な季節に

こころを鎮めて
想うべきを想い
別れるべきと別れ

そうやって春を迎えようとすることが

ほんとうにありがたいことなのでしょう。


そんな季節に
もっとも忙しい職場にいられることも

決して偶然ではなく

ありがたいことなのでしょうね。


こんなときこそ
忙しさの中でもこころを鎮めて

大事なことを後回しにせず

ピアノを弾いたり
方程式を解いたり
子どもと話したり
一緒に笑ったり

できたらいいな
そうしていたいな

と、思っていたいと思います。



そうすれば
できないことを嘆くことなく

特別な季節を
悲しみの季節を

きちんと謳歌できるような気がします。














【テーマ・さんすう】


数学に関係する読み物をこのところ
いくらか読んでいたのですが
この度もう一度
ちゃんと数学をやりたくなり

中学校で習う数学をおさらいしています。

実際中学生だったころは
計算問題がきらいで
文字式の計算は特にきらいでしたが

計算問題には
パズルのような楽しさがありますね。

子どもの頃は
出題者の意図なんか
まったく考えもしなかったけれど

おとなになって
問題そのものの周辺事情を
推し量ることができるようになると

単なる計算問題も
人の意思や自然の法則が
見え隠れしていて

なかなか面白いです。

数学なんて何の役に立つんだって
昔のわたしも今の娘も
思っていると思いますが

数学とは
自分の役に立たせるようなものでなく
むしろ
自分がお世話してもらう
生きるのに必要不可欠なものであると

いまなら思います。

役に立つとか立たないとか
そういう議論をすること自体が
愚かだったなぁと思い至ります。


いろんな人が集まる集団、
例えば会社とか学校とかで
自分なりに状況を判断し
適切な人間関係を保とうとすることは

数式を展開して
同類項をまとめることにも
通じている気がします。

さまざまな出来事から生き方を学び
自分の生きる世界にはある一定の
ルールがあることを体感することは

さまざまな値から一般式を導くときにも
同じように体感できます。

乗法における交換法則や分配法則など
先にルールから習った計算も

何度も繰り返しやっているうちに
なぜそういうルールになるのかを
逆説的に実感し理解することもある。

同じように

親や先生などの年長者から
お仕着せられたと思っていた常識が

何年も生きていくその過程で
普遍的な良識であることに
逆説的に気づくこともある。


文字式をいじっていると
実に感慨深い気づきが得られて

自ら解答にたどり着いたとき
実に痛快な満足感が得られます。



連続する3つの奇数の和が
3の倍数であることを

ただ知っていただけの自分と

納得のいく説明ができる自分とでは

生き方も大きく違ってくる

いまはそう思えています。










【テーマ・ひるやすみ】


もうかれこれ
6年くらい前から
続けているブログですが

ここのところ
以前のようには
書けなくなりました。


「目的」というものは
人間の行動をより活発に能動的に
してくれるものだと思いますが

同時に行動をより慎重にさせ
失敗を恐れる気持ちを生み出す
という側面も持ち合わせています。

現実的生活が悩み事に乱され
救いを求めて藁をもつかむ思いで
書きなぐっていたころと

わたしはあきらかに変わってしまった。



目的がわたしの視野を狭め
能動的な行動は向かい風を呼び込み
目的を吹き飛ばされそうな不安に
より目的に対する執着を強める。

目的を奪うこの風が
自分自身で生み出した風だということも忘れて
まるで誰かに奪われでもするかのように怯えながら

自分が手離す以外に失いようのない目的を
姿なき敵から守っているかのような
間違った正義感に少しずつ酔っていく。

そんな自分に気がつきました。


抜け出せない迷路の中で
ふと思いついた「卒業しない学校」

いつしかそれは
卒業してはいけない学校に
わたしの中で変わってしまっていた。

卒業しないことが
いつの間にか「目的」になり
目的以外のことをする自由を
自分の手でむしりとっている。



今一度よく考えてみる。

卒業する
卒業しない
卒業できない

それらの表現はすべて
「卒業」という現象ありき。

卒業とは
何を卒業するのかという
目的語の補助ありき。

何を卒業するのか
それは突き詰めれば
わたしにとってわたしの生そのもの。

卒業とはつまり死。

死なないことが目的。

そんな目的を
視野や行動の範囲を犠牲にしてまで
守ろう果たそうとすることは

本末転倒。

黙って生きているだけで
わたしは目的に叶っているのに

何に躍起になっているのだろう。




ふとそう思い
久々に更新しました。

また書ける日々に
戻れたらいいなとおもいます。

どうか宜しくお願いします。