【テーマ・さんすう】

点であるわたしは
まっすぐ進んでいるつもりでも
ほんとは時空のなかを
曲がりくねっているんでしょう。

許容された占有範囲は
与えられた座標でしかなくて
移動可能な領域も
予め与えられた条件の関数でしかない。

先祖の関数f(x)
わたしの通った道にも
偶然が作った方程式が
当たり前のように存在する。

少し前までそこにいたはずの
座標の値をもう忘れてしまうから
方程式の解はいつまでたっても
いまここの座標からしか求められない。

人間という領域のなかの直線上の一点。



この停滞した思考から脱したくて
ウサギという三角形を思い浮かべる。

わたしはウサギという三角形の
重心かもしれないのだと。

またはサボテンという円を思い浮かべる。

わたしはウサギという三角形のなかの
サボテンという内接円の
接点のうちのひとつかもしれないと。

そして生命の原点を想像して
たてと横に軸をとり
これまで何回かは
その軸と交わったに違いないと思い込む。

さらに空間座標を裏返して
これまでの軌跡をすべて一点に
集中できないかを考える。

ウサギの重心も
サボテンとの接点も

ぜんぶまるめて凝縮しようと
試みてみたりする。

すると

直線上の点と思い込み
曲線をウロウロしている恥ずかしさも

いまここの座標から
果てしない方程式を導こうとした愚かさも

ひっくり返った時空間のどこか一点で
すっかりきちんと纏められて

いつのまにか
もといた領域に帰ってきていることに
ふと気がついたりします。



ひどく落ち込んで
自分のなかに
別の自分の痕跡を見つけたとき

f(x)=わたし

このグラフが救いの手掛かりになります。












【テーマ・どうとく】


人生を一本の道とします。

生きとし生けるものはみな
例外なく道半ばです。

生まれたばかりの赤ん坊も
棺桶に片足入れた老人も。

わたしも。


どこまで続くか誰も知らないので
道のりのどこに今立っているのか
それは知りようがありません。

このあともまだ延々と歩むのか
それとももうあと僅かな歩数で
道が途絶えてしまうのか

わかるのはいつも
いまここが
道半ばだということだけ。

だから

自分がどこを歩いていて
どこまで辿り着いているのかは

実はあまり重要ではありません。

どんなに考えても
答えは見つかりませんから。

考えることは大事ですが
答えを求めているうちにも
道のりを歩む足は止められないので

いまここがどこであるかは
刻一刻と変わっていってしまうのです。


むしろ

重要なのは
〈誰が〉歩んでいるのか。

どの自分がここまで歩んできたのか
どの自分がこのあと歩んでゆくのか

そのことだと思います。




人ひとりの人生に
その道を歩む人はひとり。

しかし人は
ひとりのなかにも
沢山のひとりを抱えます。

過去の自分。
未来の自分。
想像に容易い自分。
思いもよらない自分。

道のりのどこを切り取っても
どこで立ち止まってみても
そこにいるのは自分ひとり。

それなのに
ほんとうは数えきれない
沢山の自分を抱えている。

失敗を犯した過去の自分を
責めたくなることもあります。

けれどもやはり
人ひとりの人生に
その道を歩む人はひとり。

失敗を恐れて次の一歩を
別の自分の決断に委ねることも
あります。

けれどもやはり
人ひとりの人生に
その道を歩む人はひとり。

主人公はひとり。



わたしのなかの
たくさんのわたしが
みんな主役を張りたがり

互いを責め合い
互いを羨望し合い
自分の喜びを求めて
押し退けあって道を進む。

苦しみを避けて
疲弊を恐れて
おかしな譲り合いをしながら
腹を探りあって道を進む。

けれどもやはり
人ひとりの人生に
その道を歩む人はひとり。



ここまで歩んできたのは〈誰か〉
これから歩んでゆくのは〈誰か〉

いまここにいるのは〈誰か〉

この道はいったい〈誰の〉道なのか


それを考えることは

いま自分が〈どこ〉にいるのかよりも
ずっと重要なことで

〈どこ〉にいるのかという答えよりも
ずっと必要なことで

〈いつ〉まで続くのかという疑問すら
彼方に吹き飛ばしてしまうほど

考えごたえのある課題に思います。


この人生

主人公はわたしですが
わたしは主役を降板しました。

道半ばであるからこそ
主役を降りれば見えてくるものが
きっとあると思います。