【テーマ・そうさく】


ふと気がつくと
椅子に座っているので
ぼくはどこから
ここへ入ってきたのか
いままで出入り口を通ったことは
一度もない。

それを不思議に感じたこともない。



「きみは夢を見るとき入り口を通るかね?」

声のする方を見ると
帽子をかぶった男の人が
ぼくの席から数えて三つ、
右隣の席に腰をかけていた。

「空間を移動するのに
出口も入り口もないのだが、
僕たちはそれじゃあ都合が悪い。」

男の人の帽子は
すっかり彼の目を隠してしまっていたから
ぼくはその人の口元を見ていた。

ごましおみたいな髭があって
少しお年を召した
おじさんだとわかった。

べつだんぼくは
入り口を探すつもりも
出口を探すつもりも
なかったのだけれど
出入り口がないと不便だという
おじさんの話はわかるような気がした。


「空間に出入り口があるとしたら
それはゼロゼロの原点であるよ。
点だとは名ばかり、実際は目に見えない。」

このおじさんはなんて
不思議な言葉遣いだろう。
ぼくは黙って
おじさんのことを聴いていた。


「きみのいる場所と僕のいる場所には
確固たる関係があるのだよ。
きみと僕が焦点という定点なら
きみと僕の間には双曲線がある。
反比例を産み出しているのだ。」


ぼくの目の前に不思議な曲線が現れて
びっくりしたぼくが二つ三つ
まばたきをすると
曲線はスッと消えてしまった。


「きみは僕を怪しんでいるね。
では双曲線を陰で支える
直線を思い浮かべるといい。
漸近線といって
決して双曲線と交わらずも
そばで見守る立派な直線だよ。」


おじさんは胸の前で
十字架をきって見せた。

おじさんのゆびのなぞった空気に
灰色のクレヨンで描いたような
柔らかな直線が現れて
両端がぐっと伸びるとちまちその直線は
無限の彼方まで伸びていってしまった。


「この直線と直線が交わる場所が
いまは原点としよう。
きみが陽気なら
きみがいる方向がプラス、
僕がマイナスだ。
きみが陰気なら
きみがマイナス、
僕がプラスだ。

気に入らないなら
正と負を分けあってもいい。」


ほんとうにこのおじさんはなんて
不思議な言葉遣いだろう。
ぼくは魔法にかかったように
ぼんやりしていたら
いつの間にか座標空間にいた。

入り口らしいところは通らなかった。
ぼんやりしていて気づかなかったのだろうか。

それとも目には見えなかったのだろうか。


「きみはいま
陽気でも陰気でもないらしい。
僕はたいそう愉快だよ。」

おじさんはY軸の向こう側で
ごましおの口元を緩めて
少し笑ったように見えた。

「きみと僕の間にある無限の可能性が
ある一定の法則に従うとだね、
さまざまな線が描かれる。ただしきみと僕が必ず
別々の座標を持っていなければならないから
きみと僕は決して接することはない。
きみが僕に、僕がきみになれば
きみと僕との間には何の関係もなくなる。」




気がつくと
あたりはすっかり喧騒に囲まれ
見慣れた酒場のカウンターになった。

相変わらずごましおのおじさんは
僕の三つ右隣の席に腰をかけていた。

でも灰色のクレヨンの十字架は消えていた。


「もしきみが原点になることがあったら
すべての点との関係を式にしてみたまえ。
きみはゼロゼロの原点に立つことがあったら
ぜひあちら側の世界も覗いてみたまえ。
僕は数を生業にしてしまったから
原点には決して近づけないのだよ。
もしきみが原点になることがあったら
ぜひ感想を聞かせてくれたまえよ。」


そういっておじさんは
いなくなってしまった。

出口もないのに
出ていってしまったんだ。

ぼくはぼくの胸の前で
あのおじさんがやって見せたように
十字架をきってみた。


世界が四つの領域に分かれ
ぼくはその中のどの領域にも属していなかった。

なぜならぼくは独りぼっちで
関係を導くもうひとつの定点を
見つけ出すことができないからだと

気がついた。





【テーマ・そうさく】


「タイムカプセルってあるだろ」


ぼくの右隣に座っている男の人が
急にぼくに話しかけてきた。

ぼくはびっくりして
返事ができなかったのだけれど
その人はそんなことは気にしてなかったみたいで
まるで独り言みたいに話を続けた。

「十歳の時、学校の授業でさ。
十年後の自分宛に手紙を書いたんだよ。
二十歳になったら皆で開けるって言って、
作文と絵かなんかをタイムカプセルにしてさ、
先生に預けた。
よくある話なんだけどさ。」

ぼくがびっくりしたのは
この人が話しかけてきたからじゃなかった。

ぼくはこの人が話しかけてくるまで
この人が隣に座っていたことを
知らなかったんだ。

もっと言えば
ぼくはここに
ぼくが座っていることにも
たぶん気がついていなかった。

この人が話しかけてきて
ぼくがここにいるのが急にわかって
それがあんまり急すぎて
それでびっくりしてしまった。

だからぼくは黙って
この人の話を聴いていても
かまわないと思った。


「子供のころに書いた作文なんか、
大人になってから読みたくないもんだろ。
なんていうか、くだらないよな。
けどさ、おれ、何を書いたか、
全然覚えてなくてさ。それで困ってるのさ。」


ぼくはたぶん十歳の時に
十年後の自分宛に手紙を
書いたことはなかったけれど
もし書いたのだとしても
この人の身になってみたとしても
この人はどうして困っているのか
少し不思議に思った。

別に覚えていなくたって
いいんじゃないかな。

そう思ったんだけど
その人は言うんだ。


「おれはそのせいで死にたくても死ねないんだ。」


ぼくはその時はじめて
その男の人がとても若者には
見えないことに気がついた。

二十歳のときに
タイムカプセルを開けるんなら
この人はもうとっくに自分宛の手紙を
読んでいるはずだと思う。

だってこの人は
白髪混じりのおじさんなんだ。


ぼくはドキドキした。

どこか行ってはいけない所に
近づいているときのようにドキドキした。


「おれは死にたいんだ。
ずっと死にたいと思ってるんだ。
だけどあの手紙が気になって仕方なくて、
なかなか死ねないんだ。
もしおれが死んだら、
あの手紙は誰が読むんだ。
あの頃の友達か先生か。
それは困るんだ、
何が書いてあるかわからないんだから、
誰かに読まれちゃ困るだろ。

タイムカプセルを開けてさ、
手紙を読むまで死ねないんだ。
それが苦しいんだよ。

けどさ、タイムカプセルを開けてさ、
そのあとおれはどうしたらいいんだろ。
そんなくだらない手紙を書いて、
それを読んでさ
、なんでそんなもののために生きてたんだろって、
もし思うんだったら、
今死んだっていいんだ。

だけど死ねないんだ。」



ぼくは
この人がもうとっくに
二十歳を過ぎていることを
知っているけど
この人は
きっと気がついていないんだ。

もしかしたらもう
随分むかしにこの人は
タイムカプセルを開けて
手紙を読んだのかもしれない。

それを忘れているのかもしれない。

だから苦しいのかもしれない。

それで死ねないのかもしれない。


「おれは死にたいのに、
あんな手紙を書いたばっかりに
死ねない。
あんな手紙を書いたばっかりに
生きなきゃならない…」



ぼくだって確かこれまでに
きっとこの人みたいに
何度かは死にたいと思ったことが
あるんじゃないかと思う。

死について思うときぼくは
なるべく具体的にそれを描くよう
だいぶ努力をするのだけれど
思い浮かぶのはたいてい

小さいころ死んでしまった
ぼくのおじいちゃんのことだとか

飼っていた仔猫が不幸な事故で
死んでしまったことだとか

ぼく以外の誰かの死のことばかりで

ぼくはいつも死を
外側から見ていることに気がつくんだ。

ぼくはこの白髪混じりのおじさんみたいには
自分のことを本当に心配したことがない。

おじさんはあんまり死ぬのが心配で
二十歳になったことも
友達や先生とタイムカプセルを開けたことも
十歳の自分が書いてくれた手紙のことも

きっとみんな忘れてしまって

本当はそれを思い出すまで
死にたくないんじゃないのかな。



おじさんが座っていたところには
キラキラした砂が少し残っていた。

ぼくはここが
ぼくの好きな場所だったと
急に思い出したのだけれど
ぼくが何も返事をしないうちに
おじさんはいなくなってしまった。


ぼくが座っているのは
左から二番目の席だった。

きっとまた誰かの
話し声が聴こえてくる。

ぼくは耳を澄まして
目を閉じた。

するとぼくは
いつのまにか

いなくなった。




【テーマ・おんがく】


年をまたいで10日ほど
ピアノを一度も弾きませんでした

ふたを開けてまず
鍵盤のほこりを拭いました

何を弾こうか
ことし最初の曲

少し迷って

バッハにしました

理由はありません


なぜ弾くのか
理由はありません


なぜ生きるのか
そこに理由がないのと同様

理由は
いらなくなったのです




ことしも弾いて
ことしも書いて

ことしも生きます


よろしくお願い
もうしあげます