【テーマ・そうさく】


「珈琲がお好きですか」


そう話しかけられて
ぼくは手元の茶碗を見つめた。

こげいろの液体から
ゆるやかに湯気がのぼる
そうだ、ぼくは
コーヒーを飲んでいたんだった。


ぼくに話しかけてきた人は
ぼくのすぐ右側の席に
たったいま腰をかけたようだった。


「初めて珈琲を飲んだときは、
なんだか大人になったような、
まだまだ子どもなような、
嬉しいような恥ずかしいような…」


そういえば
ぼくはいつからコーヒーを
飲んでいたのだろう。

もうずいぶん昔のような気がする。

薄明かりのなかで
こうやってからだを感じていると
ぼくにもぼくの経験があったことを
にわかに思い出す。

せめてそれが想い出くらいに
なってくれていたら
ぼくはぼくがコーヒーを飲むことを
不思議には思わないだろうし
突然よみがえる記憶に
びっくりすることもないだろうに。


ぼくはコーヒーを一口飲んで
それがまだ熱くて
いれたてだということを知った。

深煎りの豆を細挽きにして
丁寧にゆっくりドリップした
苦味の強い味で
ぼくはこういうのが好みだったことを
すっかり思い出したりしていた。


「以前、珈琲屋をやってましてね。」

隣にすわったその人は
話し方からなんとなく
男の人だとわかるけれど
もしぼくの耳が聴こえなくて
この人の雰囲気だけを眺めるのであれば
きっとぼくにはこの人が
男の人なのか女の人なのか
わからないだろうと思った。

この人のおかげでぼくは
コーヒーが好きだと気がついた。
この人がぼくの隣に座る前からぼくは
コーヒーを目の前にしていたというのに
まったく気づいていなかったんだ。


「いまは湯屋をしております。
いや、風呂屋と違います。白湯をおすすめしております。」


白湯。
ぼくはきっと白湯くらい
飲んだこともあると思う。
けれどおかしなことに
白湯が一体どんな味だったか
まったくわからない。


「珈琲をお好みのあいだは、
なかなか気づきません。
白湯はどんな味にもなります。
甘いものが欲しいときには甘く、
辛いものが欲しいときには辛く、
甘やかされたお口には辛口に、
つらいお人には甘く染み渡ります。

美味しいお湯をお飲みになりたければ、
まずは不味いお湯を飲まなければなりません。

いやなに、お出しする白湯には
何の区別もありません。
同じ白湯をお出しするのですが、
はじめは皆さん不味いとおっしゃいますので。

最初の一杯は非常に不味い。
お腹のなかに溜まったものがわかるようです。
次の一杯もやっぱり不味い。
お腹のなかでお湯がそれを溶かすようです。
次の一杯もどうしても不味い。
お腹がどんどん膨れてまいります。
しかし最初の一杯にお口をつけた方は、
たいてい次の一杯も、
また次の一杯もお飲みになります。

どんなに不味くてもお飲みになります。」



ぼくはこの人が
どこからともなく次から次へと
お湯のおかわりを運んでくる様子を
思い浮かべて
だんだんお腹がいっぱいに
なってきた気がした。


「そうしてすっかりお腹のなかが薄まって、
何度も用をたされますと、
お腹がすっかり空っぽになって、
次の一杯は不味くないのだそうです。

皆さんそうおっしゃいます。

それからは、甘いとおっしゃる人、
苦いとおっしゃる人、
さまざまありますが、
皆さんお好みのままの味に
満足されていらっしゃいます。

いやなに、お出しする白湯には
何の区別もありません。

いつもおんなじ、
白湯を差し上げております。」


この人はお湯屋だけれど
ぼくにお湯を売りに来たわけではないと思った。

どうしてか、そんな気がしていたら
その人は話を続けた。


「いまは湯屋をしております。

しかしながら、
わたしは一度も白湯を飲んだことがない。

私は最初の一杯を
もうずいぶん長い間飲まずにおいて、
いまもまだ飲まずにおるのです。

皆さん不味いとおっしゃいながら、
いつの間にか幸せそうなお顔になられます。

私は一度も
白湯を飲んだことがないのです。」


きっと何かわけがあるんだろうな、と
ぼくは思ったけれど
この人はわけを言わないまま
消えてしまうような気がしたから
ぼくは黙っていた。


「以前、珈琲屋をやってましてね。

でもいまは金輪際湯屋をしております。
ずっと湯屋でおりたいのです…」


そうしてお湯屋さんはいなくなった。

お湯屋さんの座っていた席に
一杯のお湯が残っていた。

これはぼくに?

最初の一杯は不味い。
一度飲んだら次の一杯が必要なのに
お湯屋さんがいなくなったら
最初の一杯を飲むわけには
いかないんじゃないのかな。

そう思ったとき
ぼくはハッとして
すごく恥ずかしくなった。

この一杯は
あのお湯屋さんのためのものだ。

あの人はあの人が
最初の一杯を飲んでしまったら
もうお湯屋さんがいなくなると
知っているんだ。


皆さんいつの間にか幸せそうなお顔になられます…


誰もいなくなった空間で
お湯屋さんの声がこだましていた。



いつの間にか
お湯もぼくも
いなくなっていた。





【テーマ・どうとく】


もしも最終到達点が
あるとしたらなら
いまはまだ1%くらい

けれど最終到達点など
あろうはずもないから
いまはまだどこでもない

この先いつまでも
いつでもなければ
どこでもない


利便が生んだごみを
誰かの代わりに捨てる
そのことに追われ

捨てても捨てても
本当に捨てたいものに
たどり着けない

焦りと苛立ち

そして気づく

その焦りと苛立ちこそ
捨てねばならない

捨てよ

利便が生んだごみと
甘えが生んだ邪念と

誰かの代わりだと
言ってはばからぬ
愚かな自分自身を

捨てよ





【テーマ・そうさく】


そろそろぼくは
ソワソワしてきた。

そもそもぼくは
何故いつもここに
座っているのか。

だいたいぼくは
何時からここに
座っているのか。

それを知る必要が
あるのかないのか。

誰かの声が聞こえてくると
あたりは少しだけ薄明かるくなり
ぼくにもぼくの
体のあることがわかるのだけれど

誰の声も
聞こえてこないときというのは
ぼくにぼくの
眼球があるのかどうかさえ
問題にならないほど
あたりは暗くて何もない。

もしも暗がりの中で
ぼくの体とおぼしきものに
何かの触れる感触があったなら
ぼくはぼくが見えないことを
急に不安に思うのだろうけれど

ぼくにぼくの
体があるのかどうかも
問題にならないほど
あたりは極めて
静寂に包まれていて

だからぼくは今まで
一度も静けさを
不安に思ったことはない。

静寂を破るのは
いつも誰かの声であって
ぼくの所有する
なにものでもない。

誰かの声がすると
決まってぼくはぼくの
体を認められるけれど
声がやむといつの間にかまた
ぼくの考え以外は
何も存在しないかのような
静寂のなかに戻ってくる。

その静寂はたぶん
薄明かりのなかで起こったことの
記憶を少しずつ溶かすように
消していくようで

ぼくはぼくの
体のあったことさえ
今まで忘れていたのだと思う。


ぼくがタイムカプセルのおじさんに
出会ったあの日。

あの日からぼくは
少しだけ変わった。

薄明かりのなかで
ぼくは何かを思い出し
その何かがぼくと暗がりの間を
どうかして隔てている。

ぼくはあの日よりも前にもきっと
ここに座っていたはずだけれど

暗がりとぼくを隔てる
何かが現れる前のことは
ぼくはまったく
思い出すことができない。
薄明かりのなかで出会った人達の記憶が
暗がりに戻ったときにも残って
その記憶がぼくにぼくの
目や耳や体のあったことを
教えてくれるものだから

ぼくはソワソワするようになり

一体いつから
一体なぜ
ここに座っているのか
考えるようになってしまった。

むしろどうして今まで
そのことを考えなかったのか
そちらの方が不自然にさえ
思うようになると

ぼくは暗がりが
怖いとさえ思うようになる。

そうしてぼくは
ぼく以外の誰かの声が
この暗い静寂を破って
ぼくにぼくの
目や耳や体のあることを
確認させてくれることを
いつの間にか期待するように
なってしまったんだ。



いきなり考えの内側が熱くなって
膨張して爆発するような予感がした。

女の人の声がしたのは
まさにその時だった。




「坊や、こちらにおいでなさい。」

ぼくが見上げると
大きな体にふかふかのコートを着た
きれいな女の人がぼくの二つ
右隣の席に腰をかけ
ぼくをまじまじと見つめていた。

ぼくは思い出したばかりの
目や耳や体をモジモジさせてしまった。


「坊やくらいの子どもがいるの。
生きていたらの話よ。」

女の人は言った。
ぼくは黙って女の人の顔を見た。
白く透き通っていて
もし声を出さずにいたら
まるでコートが椅子に座っていると
見間違えるくらいに
その女の人の肌は儚かった。

ぼくくらいの子どもって
何歳くらいなんだろう。

ぼくはいま
何歳くらいなんだろう。


「あの子が生きていたら私は
お母さんと呼ばれたのかしら。

あの子が生きていなくても
私はお母さんなのよ。

だけどあの子は
生き続けることはなかったから、
私はお母さんなのに誰からも
お母さんとは呼ばれないの。」


女の人はもうぼくを
見つめるのはやめてしまっていた。

だからぼくも女の人の
顔もコートも見るのはやめたけれど
女の人のコートがあんまり
ふかふかなものだから
柔らかくて温かな何かだけを
ぼくの右側のほっぺたに感じていた。


女の人は独り言のように話した。

「あの子は男の子だったのかしら、
女の子だったのかしら。

きっともう決まっていたのに
私にはわからないの。

子どもの性別もわからないお母さんなのよ。

誰も私をお母さんと呼ばないし、
誰も私をお母さんとは思わないわ。
あの子もきっと思っていないわ。」


ふわふわしたコートのなかで
この女の人のからだはきっと
冷たいのかもしれない、と
ぼくは思った。

だけどぼくはもう女の人が
どんなに青白い肌をしているかを
もう一度確かめる気にはならなかったから

黙って座っていた。


「私の代わりにお母さんになった方がいらっしゃるの。
ここに来れば会えると聞いてやってきたのよ。
でも座っていたいたのは坊や。
あの子はわたしを許してはくれないということね。

あの子が坊やのように素敵に育っていたら、
私はここで坊やに会うことも、
私の代わりにお母さんになった方を
探すこともなかったわ。

その人はね、
罪を犯した私に代わって
二人の子どものお母さんになったのよ。
私はその人にお礼を言わなきゃならないのだけど、
なかなかお目にかかれないの。
その人がもし私を見たら、
その人がお母さんになれたのは
私のお陰だと知ってしまうでしょう。
私の罪のうえにその人の子どもが生きていると知ったら、どうなるかしら。
それを思うとなかなか
お目にかかれないのよ。」

ぼくは何となくこの女の人は
一人に見えて二人のような気がした。
ぼくの隣にいるのは
代わりにお母さんになっという
二人の子どものお母さんだとも思ったけれど
もう一度見てみる気には
ならなかった。

だからずっと黙って座っていた。


「私の代わりにお母さんになったって知ったら、
きっと気を悪くなさるわ。」



ふわふわのコートの向こうで
女の人が泣いていたらどうしよう。
ぼくは急に泣きそうになったけれど
女の人が泣いているかどうか
確かめるなんてできないと思った。

もし本当に女の人が泣いていたら
泣きたくなったぼくの気持ちに
別の理由が生まれてしまう。

ぼくは女の人が泣いたから
泣きたくなったんじゃない。
ぼくは女の人が泣いているのを
知っているのに
どうすることもできないんだから。


「ねえ坊や。
もしその方がこちらにいらしたら、
代わりに会ってくださいな。
しあわせなお母さんでいる姿を
私に代わって見届けてくださいな。

きっと約束してね。」


そう言って女の人は
ふわふわしたコートと一緒に
いなくなった。

椅子のうえには
コートが残したぬくもりだけが
ふわふわと漂っているように見えた。





そろそろぼくは
ソワソワしていた。

なぜここに座っているのか
考えるようになっていた。
その考えは暗がりのなかで
ぼくをたまらなく不安にさせるから

ぼくは当面のあいだは
あのコートの女の人の頼みを
聞くことに決めた。

しあわせなお母さんの姿をして
あの青白い女の人ときっと瓜二つの人が
いつか同じ席に腰をかけるまで

ぼくはここで見聞きしたことを
忘れないでいようと覚悟を決めた。