【テーマ・きゅうしょく】


わたしは猫舌で
熱い飲み物は少し苦手です

毎朝家族の朝食後に
コーヒーを淹れる習慣に
なっていますが
わたしはみんなが出掛けた後に
冷めきったコーヒーを
こうして記事など書きながら
ちびちび飲んでいます

ほんとうは
どんなに安価な豆でも
挽きたての落としたてが
たいへん美味しいのは
知っています

湯気にのる薫りを
たとえ猫舌であっても
楽しめないわけはありません

熱く最も美味しいタイミングで
コーヒーをいただかないのには
それなりの理由があります

朝の慌ただしさという
もっともらしい環境的な理由に隠れて
心理的歴史的な
意外な理由が潜んでいて

それがわたしに
猫舌というもっともらしい言い訳を
与えてくれているのです

猫舌を隠れ蓑にした
強力な支配力が
まるで神のお告げのように
わたしの常識を
支配しています

わたしの祖母は
わたしが中学生のときに
亡くなりましたが

祖母が同居の家族と
食事を共にしているところを
見たことがありません

食事はまず祖父がとり
その後に伯父と伯母と
客として訪れたわたしたち家族

最後に祖母が
おそらくは台所で
済ませていたようでした

わたしの母は
祖母ほど徹底的ではないにしても
やはり食事の給事を終えたあと
他の家族から少し遅れて
わたしたちとは違うものを
食べていた印象が強く残っています

男女同権が謳われる世の中で
いまだわたしたちは
時代の過渡期にあるのだと思います

考えすぎだと
笑われそうですが

わたしの場合
家族が揃って
あたたかい食事と
その空間を
こころから共有し
ありがたく思うには

わたしの引きずる
その記憶に
けじめをつけねばなりません

祖母がそういう時代を生きたこと
それを母が継承したこと

多忙を極める現代に
わたしのなかにも
その記憶が生きていること

そのうえで
わたしはわたしに
ひっそりと
もてなしを用意する

あたたかい飲み物はいかが?






【テーマ・そうさく】


その日のぼくは
声にならない声のようなものを聞いて
薄明かりのなかに戻ってきた。

すぐにぼくは
ぼくの右隣に腰をかけた
おじさんの存在に気がついて
きっとこのおじさんの声を
聞き逃したのだろうと
後悔し始めていた。

するとおじさんは

「私が怖いですか?」

と言ってチラリとぼくを見たので
ぼくはほくが聞き逃した声が
おじさんの発する唯一の声では
なくなったことに
すっかり安心してしまった。

それからおもむろに
少しだけ体をこちらに向けた
おじさんの姿を眺めて
どうしておじさんは
ぼくが怖がっているかと
訊いたのか考えることにした。

型は少し古いように見えるけれど
仕立てのよいスーツを着て
きちんと手入れされた
立派な髭をたくわえている。

どっしりした肩幅の上に
端正な小さめの顔が
すっきりと伸ばされた背筋に
揺るぎなく支えられて

ぼくはおじさんを
むかし教科書でみた
偉人の肖像のようだと思った。

するとぼくは
その肖像にぐるぐると
落書きをしたことを
思い出して

確かに少し
怖くなった。

けれどもおじさんは
モノトーンの姿が
少し透けていることを除けば
どこにも不自然はなかった。

もしかしたら
姿が透けていることが
ぼくを怖がらせているのだと
おじさんは思ったのかも
しれないけれど

それはぼくには
本当にどうということでは
なかったんだ。

だって
ぼくだって
半分透けているような
ものだったから。


「私は以前、遊園地で働いておりました。」

おじさんはゆっくり
話を始めたので
ぼくは最初に後悔したことも
すっかり忘れて
聞き耳を立てた。

「お化け屋敷の、お化け役でした。
暗がりに身を潜めてね、
子どもたちを驚かすんです。」

ああ、ぼくにも
覚えがある!

真っ暗闇で自分の体も
見えなくて
なのに湿った空気が
ぼくの肺に入るのがわかって
なんにも見えないのに
心臓の音だけが
ドキドキ聞こえるんだ。

あんなに怖い思いを
他にしたことがあったろうか。

「私はお化けでしたから
怖がってもらうのが仕事でした。
血糊をつけたり
髪を逆立てたり
そんな姿をしていましたが
ちゃんと生きておりました。

ふだんは喧嘩ばかりの兄弟が
私の前では手をつないで
いつもは弱虫の弟が
泣き叫ぶお兄ちゃんを引っ張って
目をつぶったまま出口に向かって
駆けていくんです。

小さな女の子は
お父さんにしがみついて
声変わりしたばかりの少年も
私の前ではお母さんの手を握る。

私をニセモノだと指差して
強がる子どもほど可愛いもので

死人の格好をしながら私は
ちゃんと生きておりました。」


お化け屋敷の甘い誘惑。
怖いけれど入りたい。
暗闇で見聞きする恐怖。
出口を出て感じるものすごい安心。
なぜか湧いてくる勇気と自信。

ぼくはすっかり思い出した。
あのときぼくを怖がらせてくれたのは
もしかしたら
このおじさんだったかもしれない。


「時代が変わって
お化け屋敷にお化け役は
要らなくなりました。
お化けが給料もらうなんて
もともと洒落にもなりませんな。

人件費は設備投資に回りまして
ハイテクなんて言い方
もう可笑しいでしょうが
お化けはみんなハイテクでハイカラになりまして
私はお役御免になりました。

けれども私は
機械の創るお化けが
私より怖いとは思えませんでした。

ホログラムのお化けを見て
子どもたちはキレイだと言うんです。

仲の悪い兄弟は
仲の悪いまま通りすぎ
技術に興味津々のお父さんの腕のなかで
小さな女の子はきょとんとして
声変わりした少年は
お母さんを置き去りにして去っていく。

生きたお化けのいないお化け屋敷は
お化け屋敷ではなくなったのです。」

ぼくは黙って
おじさんの顔を見た。
おじさんはぼくより先に
もうぼくの顔を見ていて

少しだけ笑っていた。

「生きたお化けなんて変でしょう。
だからお化け屋敷なんですよ。」

ぼくはそのとき
おじさんの姿が
透けているわけが
わかった気がした。

気がしただけで
どうしてなのか
わからなかったけれど。


「実際私はお化け屋敷のお化けとはほど遠いのです。

生きたものを怖がらせられるのは
生きたものだけなのです。

生きておれば怖い目に遭っても
手を取り合って助かります。
生きておれば怖い目に遭っても
必ず安心できるのです。

だから怖がることができるのです。
だから怖いものも目に見えるのです。

私をご覧なさい。
生きていなければ
誰の目にも映らない。

私はお役御免になったのです。」


たった今まで
ぼくの隣にいた紳士は
驚くほど忽然と
姿を消した。

ぼくはそのとき本当に
声にならない声のようなものを
うっかり聞き逃したことを

こころの底から後悔した。