【テーマ・そうさく】
「果たせないと知って
約束を交わしたことがありますか。」
その日ぼくの
右隣に座っていたのは
初老の男のひとだった。
ふくよかな優しい眼差しは
その男のひとの痩せて
こけてしまった頬を
ぼくに気づかなくさせるほど
体温のぬくもりを
感じさせてくれていた。
なのにこのひとは
果たせないと知って
誰かと約束をしたと言うんだ。
ぼくにはこのひとが
そんな薄情で不真面目なひとには
思えなかった。
「孫がおりましてね。
三つです、泣き虫の女の子です。
その孫に約束したのです。」
男のひとが話すと
なんだか覚えのあるにおいがする。
消毒液、いや
病院のにおいだ。
「あのころはまだ
あの動物園にも象がいました。
他に気のきいたところを
まったく思いつきませんでね。
元気になったら
動物園に象を見に行こうと
孫と約束したのです。」
ぼくは急に思い出した。
いつだったか
大勢の子どもたちと一緒に
動物園に行ったときのことだ。
なにもいない柵の前に
貼り紙のある立て札があって
ぼくには字が読めなかったけれど
それは
つい最近までそのなかにいた
ある動物が死んだということを
みんなに教えているんだと
どういうわけかわかったんだ。
おとなは誰も
なんにも言わなかったけれど
ぼくたちはみんな
その柵のなかにこの間まで
元気な象がいたことを
知っていたんだ。
「孫の手を握ってね、
いや、握れていたかどうか
私にもわからないのですが
元気になったら
一緒に象を見に行こうと
言ったんです。
わたしはね
行けないことはわかっていた。
わかっていたのに
そんな約束を無邪気な孫にね
言ってしまったんです。」
ぼくは男のひとの
優しい眼差しから
光が薄れていくような気がして
死んだ象のことなんか
思い出してしまったことを
ひどく悪く思った。
男のひとは
もうすぐ死ぬんだ。
だけどこのひとは
お見舞いに来た女の子に
きっと元気になるって
約束したんだ。
女の子は信じた。
だけど象は死んでしまった。
「約束を果たすために
永らえることを夢見ました。
おじいちゃん、早く元気になって
一緒に動物園に行こうと
あの子の笑顔ははち切れんばかりでした。
私は果たせなかった約束を
あの子のなかに
永遠に残してしまったのです。
あの子はきっと
象を見るたび思い出す。
私はそんなことで
死にゆく私を慰めていたのです。」
男のひとの眼差しから
だんだん光が消えてゆき
やがて痩せこけたからだは
硬くなっていくように見えた。
ぼくは
男のひとの亡骸に
つい先ほどまで
生きていた証を
うんと注意深く
探そうとしたけれど
男のひとは
病院のにおいだけを残して
ぼくの右隣から
姿を消してしまった。
けれどもぼくは
あの柵の前に立った
立て札のように
男のひとが残した約束を
まだ字も読めない小さな小さな
女の子が訪ねてきても
おじいちゃんが
生きていたんだよって
わかるように
誰もなんにも言わなくたって
おじいちゃんが
生きていたんだよって
伝えるために
ただそれだけのために
いつまでもずっと
ここに座っていたい
そう思った。
そしてぼくは
それがぼくの
果たせないと知って
交わす約束だと
気がついた。
果たせなくても
永遠に破られることのない
ぼくとぼくとの
約束だ。
「果たせないと知って
約束を交わしたことがありますか。」
その日ぼくの
右隣に座っていたのは
初老の男のひとだった。
ふくよかな優しい眼差しは
その男のひとの痩せて
こけてしまった頬を
ぼくに気づかなくさせるほど
体温のぬくもりを
感じさせてくれていた。
なのにこのひとは
果たせないと知って
誰かと約束をしたと言うんだ。
ぼくにはこのひとが
そんな薄情で不真面目なひとには
思えなかった。
「孫がおりましてね。
三つです、泣き虫の女の子です。
その孫に約束したのです。」
男のひとが話すと
なんだか覚えのあるにおいがする。
消毒液、いや
病院のにおいだ。
「あのころはまだ
あの動物園にも象がいました。
他に気のきいたところを
まったく思いつきませんでね。
元気になったら
動物園に象を見に行こうと
孫と約束したのです。」
ぼくは急に思い出した。
いつだったか
大勢の子どもたちと一緒に
動物園に行ったときのことだ。
なにもいない柵の前に
貼り紙のある立て札があって
ぼくには字が読めなかったけれど
それは
つい最近までそのなかにいた
ある動物が死んだということを
みんなに教えているんだと
どういうわけかわかったんだ。
おとなは誰も
なんにも言わなかったけれど
ぼくたちはみんな
その柵のなかにこの間まで
元気な象がいたことを
知っていたんだ。
「孫の手を握ってね、
いや、握れていたかどうか
私にもわからないのですが
元気になったら
一緒に象を見に行こうと
言ったんです。
わたしはね
行けないことはわかっていた。
わかっていたのに
そんな約束を無邪気な孫にね
言ってしまったんです。」
ぼくは男のひとの
優しい眼差しから
光が薄れていくような気がして
死んだ象のことなんか
思い出してしまったことを
ひどく悪く思った。
男のひとは
もうすぐ死ぬんだ。
だけどこのひとは
お見舞いに来た女の子に
きっと元気になるって
約束したんだ。
女の子は信じた。
だけど象は死んでしまった。
「約束を果たすために
永らえることを夢見ました。
おじいちゃん、早く元気になって
一緒に動物園に行こうと
あの子の笑顔ははち切れんばかりでした。
私は果たせなかった約束を
あの子のなかに
永遠に残してしまったのです。
あの子はきっと
象を見るたび思い出す。
私はそんなことで
死にゆく私を慰めていたのです。」
男のひとの眼差しから
だんだん光が消えてゆき
やがて痩せこけたからだは
硬くなっていくように見えた。
ぼくは
男のひとの亡骸に
つい先ほどまで
生きていた証を
うんと注意深く
探そうとしたけれど
男のひとは
病院のにおいだけを残して
ぼくの右隣から
姿を消してしまった。
けれどもぼくは
あの柵の前に立った
立て札のように
男のひとが残した約束を
まだ字も読めない小さな小さな
女の子が訪ねてきても
おじいちゃんが
生きていたんだよって
わかるように
誰もなんにも言わなくたって
おじいちゃんが
生きていたんだよって
伝えるために
ただそれだけのために
いつまでもずっと
ここに座っていたい
そう思った。
そしてぼくは
それがぼくの
果たせないと知って
交わす約束だと
気がついた。
果たせなくても
永遠に破られることのない
ぼくとぼくとの
約束だ。