彼は小生にメールを送り「明日自宅に帰る」との連絡後、病み上がりとはいえ元気な姿を見せてくれた。
彼は昔から狭心症の疑いがあり、すでに数回救急車のご厄介になり彼自身もそれなりの覚悟をしていた。
幸いと言うべきか、東京の有名な名医の下に3ヶ所のバイパス手術が成功のうちに行われ、彼自身も安心してその後のリハビリに励んできたが、帰宅後の生活の様子は芳しくなく数日後に再度深夜10ごろにTELがあり、救急車に同送することになったが幸い数回のレントゲンの結果は異常なしであった。その後彼の身体状態は一進一退であったが、彼が再度の異変は何の前触れも無くやってきた。
「おい!、その後調子はどうを?」、「うん、大分食欲も出て今シャワーを浴びたからメシでも作ろうかと思っているだ」と。
これが彼との最後の会話となった。翌日は私事で朝から不在を知っていたのか再再度、救急車を呼び彼の親友が同伴することになったが、数時間その親友からのTELで深刻な状況が明らかになった。
彼はすでに人工呼吸器と人工心臓器でかすかな命をつないでいたが、彼はすでに残念ながらすでに脳死状態となっていた。遠くにいた彼の親族も着たが、それを待っていたかのように彼はその後天国へと旅立っていった。
余りの急変に病院側もその原因が不明でその遺族に解剖を要請し、その結果誰も知らなかった原因が判明することになった。
主原因が潰瘍からの出血性ショックであった。小生も親友も潰瘍による下血の話は全く聞いていなかったが、2回目の緊急入院で初めて医者にそれを告げたらしいが時すでに遅しであったのである。大量の輸血も効果が無かった。
彼の父は日本初の「氷川丸」のコック長を経て横浜のプリンスホテルの名コック長で退任するが彼も遅まきながら父を見習い、猪苗代のある大きな施設で料理を学び定年前に退職し、言わば悠々自適の生活を送っていた。その間在任中皇室の方々をもてなしたことを誇りとしていたようであった。享年70歳、一生独身で通した。彼はこよなく美術を愛し、猪苗代の自然を愛していた男であった。ご冥福を祈りたい。 ヴィラ ポルトガル。