日本は四季にめぐまれた自然豊かな素晴らしい国である。八百万の神々の住み給うありがたい国である。

 

 こう書くと、まあ賛否はあれども、ああそうかと思う。別に、「どこそこの国よりも素晴らしい」とか、「何処かの国に比べたら素晴らしい」などとあえて比較する必要はまったくない。これを絶対評価という。

 

 ところが、お隣の韓国では念仏のように以下のようにいわれる。

 

 「日本よりも韓国は素晴らしい」「韓国は日本よりも優れている」「韓国は日本に比べて云々カンヌン」

 

 常に、何をいうにしても、「日本よりも優越している」と言わなければ気が済まない。こういうのを相対評価という。

 

 これはようするに、日本に「依存」しているのである。日本という国を持ち出さなければ話ができないということは、日本に依存しなければ話が成立しないということになる。

 

 そのため、日本の文化をすべて、「韓国起源」のものとして公言してはばからないし、現に世界中にそう発信している。

 

 中国もまた同じである。

 

 実は客観的にいって日本人にもこういう「比較」の精神は朱子学(儒教)の影響で入ってしまっており、受験や社会のエリート意識など様々な形で現れているが、程度の問題で、中韓は国単位でもってくるあたりがやはり「朱子学100%」の国である。日本は、まあ、汚染度が20%くらいかなというところであるのは、あくまでも比較が個人の範囲をあまりでないからである。

 

 イタリアのピザですら、韓国起源と言ってはばからない人たちである。筋金いりの比較(儒教)文化である。

 

 もちろん公平にいって、西欧諸国やその他の国々も比較は大好きであるが、それがなければ成り立たないというほどではない。

 

 しかし、中韓、とくに現代の韓国は、この「日本との比較」がなければ、日本を見下さなければお国自慢ができないという点で、闇は深いといえる。

 

 こういう国が隣にいて、世界中に日本の悪口をでっち上げの嘘を根拠に言いふらして歩き、それがある程度の効果を持ってしまっている現実を、私たちは冷静に観察しなければならない。

 

 その上での、対策である。

 

 今回もお読みいただき、ありがとうございます。