昨日は渋谷のアップリンクに、2度目の「この空の花」を見に行きました

始まりの激しいカットの入れ替わりに付いて行こうとしているうちに、完全に引き込まれてしまいます

前回ほど泣き疲れるなんてことはありませんでしたが、爆弾が花火へと変わっていくシーンではやはり涙が止まりませんでした

意味があるのかないのかわからないカットの挿入や、度々現れる一輪車の大群、突然差し込まれる字幕など過剰な演出がすべて大林監督の情念として見ている人を包み込むようです

「この空の花」では、想像力が奪われてしまうことが1番恐ろしいことなんだと訴えています。
V.E.フランクルの「夜と霧」で描かれているのも、アウシュビッツのユダヤ人強制収容所では、いかに人の想像力が容易に奪われてしまうかという恐ろしさだったと思います。
映画「ライフ・イズ・ビューティフル」では、「夜と霧」とコントラストをなすように、どんな困難な状況にあっても想像力を働かせることによって、人は美しい風景を見ることが出来るというテーマがありました。
「ダークナイト」でヒース・レンジャー演じるジョーカーの恐ろしいところは、犯罪行為がただ純粋に退屈しのぎだったり、面白がるためだけに行われているところだと思います

金銭目的や怨恨であれば、その犯罪を目の当たりにして、人は想像力を働かせることは出来ますが、犯罪行為がお金や恨みといった動機と結び付けることが出来ない場合は、人が出来ることと言ったらただ狼狽することだけです。
犯罪心理とかを、その犯罪者のトラウマとか心的理由にこじつけようとしても、それを嘲笑うかのような圧倒的な悪とでも言うような存在は必ず現れるはずです。
そういう意味では、想像力のボーダーラインを巡って、想像力の可能性を描いたのが「この空の花」であり、想像力の限界を描いたのが「ダークナイト」であると言うことが出来るように思います。
「この空の花」に魅せられて長岡の花火大会にも行くことにしましたし、今はフジロックの苗場に向かう新幹線の中です

転職を機会に時間がたくさん取れるようになっているので、いろいろな人と出会ったり、いろいろな音楽と出会ったり、いろいろな風景を見つけたりと、想像力の糧になるような日々を過ごそうと思っています

しょうもない恋愛沙汰ではありますが、相手に対しての想像力をなくしてしまったことへの贖罪という思いもあるのかも知れません
