古市憲寿さんの「絶望の国の幸福な若者たち」が若い世代を代弁していることになるのかは分かりませんが、少し残念な内容でした

前半は最近の若者はとか訳知り顔で語るオヤジな人達に対して物申すといった感じでしたが、そんな影響力のなさそうなつまらない人達など相手にしなければいいのにという様に感じてしまいました。
世間のいわゆる若者論の正しくなさを証明するために展開される議論が、逆に若者論に拘泥してしまうことによって議論の射程範囲を狭くしてしまっているように感じてしまいました。
誰に向かって語りかけるかはやはり難しい問題ですね。
誰に向けて話しているのか分からないブログで言ってもしょうがないことかも知れませんが…

絶望というキーワードに繋がるであろう若い人達の自殺の増加について触れていなかったのも少し残念でした。
僕の中では若いということは、退行的に遊び耽るにしても、情熱的に答えを探し求めるにしても、絶望さえも楽しんでしまうような可能性を秘めていることのように感じます。
学生運動華やかかりし頃でさえ、乱交を目的とするなど人々がつるんでいるうちに当初の目的が失われるというのはよくあることです。
そんな中で、簡単にガス抜きされないような強度を持つ意志を持ち続けるのは難しいことですが、それを可能にするのは共有することが不可能な固有の情念のようなもののように感じてしまいます。
自分の生活に満足できていない人ほど「国を変えたい」とか大きなことを言うというのは、ネット右翼など政治運動の多くがルサンチマンを基にしているようにその通りだと思います。
そしてルサンチマンの暴走がナチス・ドイツのヒトラーを生み出したという恐ろしさはあります。
でもその歪んだ思いが世界の面白さだったり、その過剰さこそが世界の豊穣さだと思っている僕は、現状に満足してしまうよりは「I Can't Get No Satisfaction」とロックするしかないのかなと思います
出てくる人物の年と出身地が記載してあるのは、日本人というだけで共有していると思われがちな感覚を相対化してそれぞれの発言の固有性が見えてきそうで面白い試みだと思います。
ヤシマ作戦のもとにみなが節電に努める現象が話題になりましたが、すべてが東電の情報操作に見える状況では、アンチ・ヤシマ作戦とか言いながら、電力消費がピークのときに一気に、エアコンやドライヤー、電子レンジなどのスイッチを入れて、本当にブラックアウトが起こるかどうかを見る方がよっぽど面白かったのかなと思います。
もしかしたら僕はリバタリアンでも、コミュニタリアンでもなく単なるアナーキストなのかも知れません

