ミュージック・マガジンで「音楽の快楽を科学的に記述できるか」という対談がありましたが、なかなか興味深い内容でした

高橋健太郎さんのいう音響の快楽的な情動には普遍性があるんじゃないかという問題提起はとても興味深いものがあります

そのミュージシャンの生い立ち、どんなものに影響を受けたか、伝統的なものに根ざしているかなんてことはどうでもいいことだし、そういうイデオロギー的なものを超えたところにある快楽こそが、その音楽を普遍的なものたらしめるというのは、フジロックなどで初めて聴くミュージシャンにやられてしまう体験などでみなが感じていることだと思います

ミュージックマガジンで特集されていたパフュームの音楽などは、そもそもエフェクトされたボーカルでは歌詞を伝えるというよりも、記号的とも言っていいようなキッチュな声の可愛らしさをアンプリファイするためのもののようにも感じます。
そういった意味ではパフュームの音などはもはや音楽というより音響と言った方がしっくり来ます。
今日が真珠湾攻撃の日ということもあってか、NHKで太平洋戦争を戦った人達のドキュメントを放送していました。
日本から遠く離れた海に浮かぶ島々で戦った旧日本兵が、一般人を虐殺してしまったのを悔恨の思いで涙ながらに語っていましたが、戦争中では当たり前だったイデオロギーから解放され素朴に現地の人々の哀しみを想像出来るようになったのだと思います。
その苦痛に満ちた表情を見ると、イデオロギーの違いによって取り返しがつかないことをしてしまった場合などは、そのイデオロギーから解放されてしまうことは残酷極まることなのかも知れません。
一つ気掛かりになってしまうのは、その素朴な共感というものはどこまで信じることができるものなのでしょう?
患者の赤ちゃんたちを見ていると、早い段階で空気を読むことの必要性を感じているのは明らかです。
そういうことを考えると極端に言えば、赤ん坊の原初的な叫び(Primal Scream!)でさえイデオロギーから本当に自由でいられるのだろうかなんてことも考えてしまいます。
ナチスにおいてはヒトラーの演説や音楽などを音響的な快楽を人々の精神的な高揚に繋げようとしていたのは有名な話です。
東浩紀さんはそれも考慮して、密室的に熟成させる議論を牽制するものとして素朴な共感を措定しているのだと思いますが、素朴な感情を記号的にコントロールしようとするテクノロジーはハリウッド的なものと親和性がありそうですし、資本の原理で暴走する匂いがプンプンするのが怖ろしいところです

理屈やイデオロギーではない感動や共感には果たして根拠があるのかはやはり本質的な問題だと思います。
プラグマティズムを追求することの落とし穴とでも言うのか、果たして人は哲学することから自由になることはできるのでしょうか?
もちろん反語です

イデオロギーや宗教は趣味の領域にしておいて欲しいと思いますが、自省するという意味では哲学の必要性は変わらないように思います。