母親の目は私の目だ。
小さいころから人前では大人しくて
何も喋れない私を母は心配していただろう。
小1でいじめにあい
どうにか前向きでポジティブで
誰に対しても強気な子であってほしいと
願っていただろう。
今は過去を思い出してそんな風に思う。
スポーツ(アイスホッケー)やってみないか?
と言われてはじめたこともあった。(小1の冬)
乗り気じゃないけど母親が言うなら、、って
感じだったかな。
だけど私の性格上、輪の中に入れないから
人間関係は楽しくなかったのを覚えてる。
で、時が経ち現在。
やっと私がなぜいじめられたのか
なぜ幼少期から人前では大人しかったのかが
ようやく分かったのがここ最近。
私は過去世に傷ついた痛みをかかえたまま
今世を生きていた。
私が自由でいたら
他人に攻撃され傷つくことを恐れて
いつも人に合わせて、言いたいことを言えず
本当はやりたいことをやらずにいたこと。
その恐れがめちゃくちゃ強かったから
今、私のその内面を写し出した
嫌がらせをしてくる近所の人たち。
わたしが母親に2回ぐらいだけど
ここ数ヶ月で相談したとき
私を引っ張るように、
後押しするように、
私が堂々といられるように
「正々堂々と表に出なさい、
あなたは間違ってない」と言わんばかりに
私にその背中を見せてくれた。
昔から弱気な私を
いつも支えてくれていたのだと
今更ながら気づいた。
私が友達やいとこと喋ろうとすると
いつも母親の視線が気になっていた。
それはまるで監視されてるような感じに
当時は思って嫌だったんだけど
私を見守る、私を気にかける眼差しだったんだ。
それを嫌がってたなんて。。
だから他人からの監視の目がやたらと
気になってたのも
過去に受け入れられなかった
母親の心配の眼差しだったのかもしれない。
逆に言うとそれは
私が私を心配している目であり
監視の目でもあったんだ。
それを拒否してたのは私だったのだ。
心配されるのがイヤだった。
心配への抵抗が監視の目に対する抵抗になって
そのような相手を写し出していた。
だからあんなに監視の目を感じてた。
監視してたのは私だ。
大丈夫かな?って。
それをうっとーしがってたのも私。
嫌な気分は私が私を監視する目だ。
その心配の眼差しだって
私が私に向けた目だ。
私が心配(不安)の波動を使って
自分が心配になる(不安)現実を写し出し
心配(不安に思う)する相手を写し出していたのだった。
心配の波動も不安の波動も手放す。
心地良いのは自分のことを心配しない(不安の眼差しで見ない)し、そう思わせない私の世界。
心配かけたけど私はもう大丈夫だ!!