小学校低学年
小学校入学と同時に 家も引っ越した
今までは、おばあちゃんの家の 裏に住んでいた
今度は、市営住宅に変わる
小学校入学式の後、もう一つ別の門をくぐった私
今では珍しくもないですが 児童保育施設
当時は、設立直後、第1期生にあたります。
私をいれて人数も3人しかいませんでした。
こんな状態ですから 小学校へ行っても
放課後 一緒に遊べない。
他地区からの転校だかろ 知っているお友達もいない。
担任の先生は 優しかったが、心を開かない子供に
いつまでも、関わっていてはくれない
やはり、一人ぼっちの私。
同級生の子達からも敬遠され
虐めというよりは幼かったので悪戯だったのでしょうが
こうもりが、靴に入っていたり。トイレに閉じ込められたりと
いろいろありましたが、親に相談することすら出来ませんでした。
何時も 首から鍵をぶら下げ、「かぎっ子」とよばれ
家に帰っても、誰もおらず、一人ぼっちで両親の
帰りを待つ毎日。両親が帰ってきても
父は、厳しい人で、あまり無駄口は聞きません
何時も、口をへの字に結んで、腕組して
床の間の前に座っていた。
母は、弟の面倒を見ながら夕食作りで忙しい
結局、父や母と 一緒に笑いあったり、話したり
一部しか記憶にない。
弟は、可愛くよく一緒に遊んだ
そんなときだけは、母も優しい瞳を見せてくれた
まだ、学校に行きたくないとも思っていなかった時代
まだ、死んでしまいたいと、考えることもなかった時代
一人ぼっちでも、時折見せてくれる優しい眼差しで我慢できた時代
しかし、中学年から高学年になるにつれて
だんだん、私の心は蓋をし始める。
これについては、また次回にでも
1日1回と思っていましたが、暫くおやすみしてしまいました。
それにも関わらず、ペタ頂きありがとうございました。
幼稚園・保育所
私は、その頃では珍しく 幼稚園は2年保育でした。
当時は、小学校へ入る前だけ幼稚園というのが普通で
2年保育は 少なかったんですが、幼稚園自体が少ない
だから、当然何キロも離れた幼稚園に通うことになります
当時2年保育の子供は 親が連れて行っていました。
1年の子供は 一人で通っている子もいましたが
でも、片道約4キロの道のりを 私は一人で歩いていました
まだ、4歳のときに 寂しくて、悲しくて
歩いても歩いても 着かない幼稚園
大雨の日、大雪の日は、バス停まで送られ
一人でバスで通いました。
今の4歳の子供に そんなことさしたら虐待になるのでしょうか?
入園式の写真・卒園式の写真 そこに父母の姿はありません
2年目の幼稚園は、祖母が忙しくなった事もあり
母が勤めていた 心療病院の近くの 幼稚園へ
転園することになりましたが、母は保育園の保母さんの助手
ですから途中までは、一緒でしたが、そこからは
また一人でした。
当時珍しい2年保育ですから、クラスのお友達も2年目の
子供達ばかり、そこへ 他所からいきなり入ってきた子供に
ましてや、その地域に住んでいない子供に なかなか、仲良く
してくれるお友達も少なく、毎日幼稚園へ行くのが嫌で
仕方がなく、途中まで行っては、引き返し、また放り出されるの
繰り返しでした。幼稚園が終わって 帰る家は遠すぎます
ですから、母の勤める保育園へ 一旦帰るのですが
そこでは、私は園児ではありませんから
母の仕事が終わるまで、保母さんのお手伝いをしながら
時間を過ごしました。弟は園児ですから、きちんと世話も
してもらい、母が優しい顔で 他所の子と遊んでいる姿を
横目に 私はここにいるんだよって心の中で叫んでいました
わがままを 言った日には家へ帰ってから よく叱られました
お母さんは、お仕事をしているんだから、我侭は駄目だって
それが嫌なら 一人で家にいなさいと
ここでも、私の居場所はありませんでした。
幼稚園と保育園 どっちつかずの生活の中
私は、だんだんと喋らない、笑わない 可愛げのない女の子
といわれるようになって行くのでした。
小さな頃に
気がつくと 何時も一人だった
母も父も仕事に出かけ 弟は母と仕事場の保育園
私は、祖母の家で 留守番 しかし、祖母は優しかったが
多忙で あまり家にいなかった。
まだ、やっと 歩き出した頃
祖母の家の庭で一人遊んでいた
夕食の時間 思い出せない。
思い出すのは 背景ばかり
家の間取りやカーテンの色
まーるいちゃぶ台・タイルの貼られた台所
背景ならば どんな小さなことでも思いでせる
しかし、肩車・お話・おままごと 思いだせない
周りには、何時も誰も いなかった
弟だけが、光っていた。



