諸君らは反日NHKで放映した昔の大河ドラマに
【太平記】があったのを知っているね❓
そのドラマの中では
楠木正成を武田鉄矢が演じてたんだよな‼️
なんかイメージが違うと思わんかね❓🫵😒
なんていってもNHKっていうのは反日放送局だから
日本の偉人をドラマやドキュメンタリーなんかで
こうやってよく辱めるんだよな🫵😒
諸君らも
楠木正成の名前は聞いた事があると思うし
皇居の広場で銅像とか見た人もいるとは思うんだが
案外と『楠木正成っ何をした人❓🤔』
そういう人が多いんじゃないかな❓🫵😒
全く情け無い話だよな🫵😒
戦前ならば大楠公(だいなんこう)と呼ばれ
日本人に最も人気があり愛されていた武将で
楠木正成を知らない日本人なんていうのは
考えられなかったんだがな🫵😒
普段からやたらと自らの事を
『我こそが愛國だ!』
『私こそが保守だ!』
そう言っている者を多く見かけるが
真の忠臣・大楠公について知らないんじゃ
愛國も保守もあったもんじゃないからな🫵😒
今日は大楠公の話をしようと思う‼️
まずは大楠公の人生をザックリ振り返ろう‼️
とは言っても正成って実は謎多き人物でだね
生まれた年すらハッキリしてないんだな⁉️
正成の事でハッキリわかってるのは
元弘元年(1331)の挙兵から
建武3年(1336)の
湊川の戦いでの自刃まで‥‥
このわずか6年ほどの間だけなんだな🫵😒
楠木正成の生まれに関しては諸説あり
永仁2年(1294)
今の大阪府南河内郡千早赤阪村水分
ここで生まれたとされてるんだな🫵😒
そこには出生地の碑や産湯の井戸なんかがある‼️
太平記には楠木家は奈良時代の忠臣である
橘諸兄の血をひいていたと書かれてるから
まぁ〜河内では有力な氏族だったんだろうな‼️
水分という地名から考えても楠木家というのは
おそらく水源地帯をおさえていたんだろうから
支配力も財力もあったんだと僕は思うね🫵😒
正成の活躍した時代というのは國史でいうと
関東の鎌倉の地に拠点を置く鎌倉幕府の時代‼️
正成の本拠地・河内は鎌倉から遠く離れた関西‼️
関西というのは元々から天皇や貴族の土地が多く
鎌倉幕府の力が及ばない地域だったわけだ‼️
だから正成たちは鎌倉幕府や世間からは
悪党と呼ばれてたんだ🫵😒
いいかね‼️
悪党っていってもだな諸君らが思っているような
悪い事をする奴の集団って意味じゃなく
幕府の支配力じゃ手に負えない人達
こう人達の事をさしているんだからな🫵😒
元寇の後に幕府は働いた御家人達に
恩賞の土地を与える事ができず御家人達から
不満の声が高まり幕府は力を失っていたってのが
悪党がうまれた原因なんだな🫵😒
御家人達からしたら外敵を追い払ったのに
恩賞として土地がもらえないって事になったら
ただ働らきから御恩と奉公が成り立ってない訳だし
そりゃ社会体制が揺らぐのも当然だよな🫵😒
そんな中‥‥
幕府に不満を持っている人がもう一人いたんだ🫵😒
それが後醍醐天皇🫵😒
天皇による親政をしたかった後醍醐天皇は
元亨4年(1324) に倒幕を決意し計画をするんだが
こらはすぐ幕府にバレてしまったんだ⁉️
これを正中の変っていうんだ‼️
更に7年後の元弘元年 (1331)
後醍醐天皇は倒幕に向けて
今度は元弘の乱を起こしたんだな⁉️
7年の間ずっと幕府に不満を持つ貴族や武士や
悪党に声をかけ続け倒幕の準備をしていた
後醍醐天皇の思いに心を動かされた
正成も倒幕を目指し挙兵をしたんだな🫵😒
だがしかし‥‥
またまた幕府に計画がバレてしまったんだな⁉️
倒幕計画がバレた後醍醐天皇は京都と
奈良の境にある笠置山に身を隠し挙兵したんだ‼️
だがそこで起きた笠置山の戦いに負けて
後醍醐天皇は捕らえられてしまったんだ⁉️
一方の正成は赤坂城に立てこもり‥‥
様々な奇策を用いて城壁から幕府軍に熱湯をかけたり
投石や丸太を転がしたりして熱戦を繰り広げ
幕府軍を苦しめたんだな🫵⁉️
だが多勢に無勢‥‥赤坂城は落城🔥
正成は密かに赤坂城を脱出したんだ🫵😒
一方で幕府軍に捕らえられた後醍醐天皇は
島流しとなり隠岐の島へ⁉️
正成は後醍醐天皇が島流しになっている間も
大和国の吉野などで戦っていた
後醍醐天皇の皇子である
護良親王(もりよししんのう)と共に河内国の
上赤坂城や金剛山に築いた千早城に籠城し
ゲリラ戦法などを駆使して幕府の大軍を相手に奮戦し
倒幕に向けて戦を続けていたんだぞ🫵😒
(護良親王⬇️)
そんな正成に触発された足利尊氏や
新田義貞や赤松則村などが
次々と倒幕の兵をあげていったんだな‼️
そしてついに‥‥
元弘3年(1333)
鎌倉幕府滅亡
後醍醐天皇が都へ凱旋する際に正成は
兵庫まで出迎え同道警護についたんだ‼️
鎌倉幕府が滅亡したんで後醍醐天皇は
建武の新政を行ったんだな‼️
しかしだな…この建武の新政っていうのが
貴族や寺院が権力と財力を持つ仕組みで
倒幕のため働いた武士達には
何の得もない政治だったんだよな🫵😒
倒幕のために働いた武士達からは
不満の声が高まる事になっていって…
その不満を足利尊氏に相談したんだ‼️
足利尊氏たちの不満の気持ちも理解が出来る
正成は後醍醐天皇に
武士の待遇を改善してもらえるよう願い出るんだが
それは残念ながら聞き入れてもらえずに
足利尊氏たちは挙兵することにしたんだ‼️
正成は武士でありながらも後醍醐天皇への
忠義心を貫き足利尊氏たちとは袂を分かって
闘う事になっていくわけだ‼️
建武3年(1336)1月
後醍醐天皇に叛旗を翻した足利尊氏は
関東から進軍し京を目指すんだけど正成や
新田義貞や北畠顕家なんかとの
摂津の豊島河原の戦いに敗れ
足利尊氏は九州に逃亡することになったんだ‼️
でも正成からしたら今の公家政治じゃ再び
足利尊氏が攻めてきたら対抗できないって事が
わかっていたらか後醍醐天皇に対し
足利尊氏と和睦することを進言するんだが
この進言は通らないんだな🫵😒
そんな中で足利尊氏は
着々と九州で勢力を盛り返していったんだ‼️
それを脅威に感じた後醍醐天皇は
足利勢の播磨の赤松円心の追討を
新田義貞に命じるんだが
なかなか赤松円心の追討できないんだ‼️
新田義貞がグズグズしてる間に
九州や四国の勢力を傘下にいれた足利尊氏は
大軍を率い京に向け船団で進軍をはじめた‼️
この報を受けた正成は後醍醐天皇に
防衛に不向きな京から朝廷を一時的に比叡山へと
退避させて足利尊氏を京に引き入れた上で
兵糧攻めにしながら包囲殲滅するという戦術を
進言するんだが…この進言も通らなかったんだ‼️
正成は後醍醐天皇から新田義貞の援軍に
兵庫に向かって足利勢を迎えうって
そこで戦うようにを命じられたんだ🫵😒
戦上手の正成…
この戦に勝算が無い事はわかっていたんだが
ここでも正成は忠義の道を選んだんだな‼️
桜井の駅で正成は嫡男の楠木正行を呼び
故郷の河内に帰るよう命じるだが…
共に行きたいと言う11歳の楠木正行に
『わしとオマエが
友に討死してしまったら
このさき誰が
帝をお守りするのだ!
今は身命を惜しみ
忠義の心を重んじ
一族郎党を養いまとめて
いずれ必ず朝敵を滅ぼすのだ!』
そう正成は言ったんだ…
これが有名な桜井の別れだよな🫵😒
一方の新田義貞は足利尊氏の大軍の襲来に
赤松攻めを中止して後退…
だが赤松軍の追撃を受けて大きな被害を受け
新田義貞は二本松と和田岬に陣を置くんだ‼️
湊川に到着した正成は湊川の西‥‥
新田義貞の本陣の北西に陣を置いたんだ‼️
足利尊氏の軍勢は上陸し
新田義貞の陣を側面から強襲‼️
正成の陣を背後を斯波軍が襲撃‼️
細川軍は戦場より東の生田付近に上陸‼️
もうこうなると新田義貞は大混乱😵💫
退路を断たれること恐れ新田義貞は
なんと正成を見捨てて敵前逃亡開始⁉️
そのせいで正成の軍は敵中に完全孤立するんだが
それでも一時は
足利直義に迫る奮戦をみせたんだ‼️
だが軍勢が73騎まで減ってしまい正成は
死に場所を求め湊川付近の民家に入り
最期をさとった正成は
『何か願いはあるか?』
そう弟の正季にと問いかけると正季は
『七生まで人間に生れて
朝敵を滅ぼしたい!』
そう答えたんだな🫵😒
正成は『いつかこの本懐を達せん』
そう言って弟の正季と刺し違えて自害したんだ…
この時の正季の言葉がいわゆる
七生報国
この言葉の由来なわけだがX(旧Twitter)などで
アカウント名に使っている者達などがいたり
七生報国と書き込んだりする者達がいたり
街で七生報国とプリントされているシャツを
着ている者達を見かけたりもするのだが…
この者達は七生報国がどんな意味であるのか
どんな由来があるのかという事を
ちゃんと理解し使っているのか疑問だな🫵😒
太平記では正成の最期に触れて
智・仁・勇の三徳を兼ねて
死を善道に守るは
いにしえより今に至るまで
正成ほどの者は いまだ無かりつるに
そう記している‥‥コレは
人として最善の道を守るため
死をも省みない
そんな楠木正成ほどの人はいない!
そういう意味だ🫵😒
今の日本では忠や孝という言葉は
まるで古臭い
封建制度の名残のような扱いだが
忠と孝というのは日本人にとって
最高の道徳心じゃないだろうか❓
忠と孝を胸に我ら日本人は
生きるべきじゃないだろうか❓
今日5月25日は
楠木正成が湊川に散った日‥‥