こんばんは😊
国史が大好きHickeyです😁
僕は國史が大好き❗️自國の歴史だから当たり前‼️
史跡遺跡を訪ねたり博物館に行くのも大好き‼️
『歴史は難しいから興味ない😨💦』
そんな事を言う人もいるけれど…勿体ない…
僕のブログでは國史神話の話が出てくるけれど
『歴史は難しいから興味ない😨💦』
そういう人に興味を持ってもらえるよう工夫し
國史を学ぶ入り口づくりをブログでしている‼️
どうか『歴史は難しいから興味ない😨💦』
そんな風に斜に構えずに楽しんで欲しい‼️
國史は楽しいぞ🇯🇵



さて昨日は【東北の覇者といえば…】
そういう題で話をさせていただきました‼️

まだ御覧になってない方は
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【Hickeyの今日は何の日❓🤔】

建武3年5月25日
湊川の戦いで
楠木正成が足利尊氏に敗れ
正成は一族と共に自害したんだ😔




諸君らは反日NHKで放映した昔の大河ドラマに

【太平記】があったのを知っているね❓




そのドラマの中では

楠木正成武田鉄矢が演じてたんだよな‼️




なんかイメージが違うと思わんかね❓🫵😒

なんていってもNHKっていうのは反日放送局だから

日本の偉人をドラマやドキュメンタリーなんかで

こうやってよく辱めるんだよな🫵😒




諸君らも

楠木正成の名前は聞いた事があると思うし

皇居の広場で銅像とか見た人もいるとは思うんだが

案外と『楠木正成っ何をした人❓🤔』

そういう人が多いんじゃないかな❓🫵😒

全く情け無い話だよな🫵😒

戦前ならば大楠公(だいなんこう)と呼ばれ

日本人に最も人気があり愛されていた武将で

楠木正成を知らない日本人なんていうのは

考えられなかったんだがな🫵😒



普段からやたらと自らの事を

『我こそが愛國だ!』

『私こそが保守だ!』

そう言っている者を多く見かけるが

真の忠臣・大楠公について知らないんじゃ

愛國も保守もあったもんじゃないからな🫵😒

今日は大楠公の話をしようと思う‼️

まずは大楠公の人生をザックリ振り返ろう‼️

とは言っても正成って実は謎多き人物でだね

生まれた年すらハッキリしてないんだな⁉️

正成の事でハッキリわかってるのは

元弘元年(1331)の挙兵から

建武3年(1336)

湊川の戦いでの自刃まで‥‥

このわずか6年ほどの間だけなんだな🫵😒




楠木正成の生まれに関しては諸説あり

永仁2年(1294)

今の大阪府南河内郡千早赤阪村水分

ここで生まれたとされてるんだな🫵😒

そこには出生地の碑や産湯の井戸なんかがある‼️



太平記には楠木家は奈良時代の忠臣である

橘諸兄の血をひいていたと書かれてるから

まぁ〜河内では有力な氏族だったんだろうな‼️

水分という地名から考えても楠木家というのは

おそらく水源地帯をおさえていたんだろうから

支配力も財力もあったんだと僕は思うね🫵😒

正成の活躍した時代というのは國史でいうと

関東の鎌倉の地に拠点を置く鎌倉幕府の時代‼️

正成の本拠地・河内は鎌倉から遠く離れた関西‼️

関西というのは元々から天皇や貴族の土地が多く

鎌倉幕府の力が及ばない地域だったわけだ‼️

だから正成たちは鎌倉幕府や世間からは

悪党と呼ばれてたんだ🫵😒

いいかね‼️

悪党っていってもだな諸君らが思っているような

悪い事をする奴の集団って意味じゃなく

幕府の支配力じゃ手に負えない人達

こう人達の事をさしているんだからな🫵😒

元寇の後に幕府は働いた御家人達に

恩賞の土地を与える事ができず御家人達から

不満の声が高まり幕府は力を失っていたってのが

悪党がうまれた原因なんだな🫵😒

御家人達からしたら外敵を追い払ったのに

恩賞として土地がもらえないって事になったら

ただ働らきから御恩と奉公が成り立ってない訳だし

そりゃ社会体制が揺らぐのも当然だよな🫵😒

そんな中‥‥

幕府に不満を持っている人がもう一人いたんだ🫵😒

それが後醍醐天皇🫵😒




天皇による親政をしたかった後醍醐天皇

元亨4年(1324) に倒幕を決意し計画をするんだが

こらはすぐ幕府にバレてしまったんだ⁉️

これを正中の変っていうんだ‼️

更に7年後の元弘元年 (1331) 

後醍醐天皇は倒幕に向けて

今度は元弘の乱を起こしたんだな⁉️

7年の間ずっと幕府に不満を持つ貴族や武士や

悪党に声をかけ続け倒幕の準備をしていた

後醍醐天皇の思いに心を動かされた

正成も倒幕を目指し挙兵をしたんだな🫵😒




だがしかし‥‥

またまた幕府に計画がバレてしまったんだな⁉️

倒幕計画がバレた後醍醐天皇は京都と

奈良の境にある笠置山に身を隠し挙兵したんだ‼️



だがそこで起きた笠置山の戦いに負けて

後醍醐天皇は捕らえられてしまったんだ⁉️




一方の正成赤坂城に立てこもり‥‥






様々な奇策を用いて城壁から幕府軍に熱湯をかけたり

投石や丸太を転がしたりして熱戦を繰り広げ

幕府軍を苦しめたんだな🫵⁉️

だが多勢に無勢‥‥赤坂城は落城🔥

正成は密かに赤坂城を脱出したんだ🫵😒




一方で幕府軍に捕らえられた後醍醐天皇

島流しとなり隠岐の島へ⁉️

正成後醍醐天皇が島流しになっている間も

大和国の吉野などで戦っていた

後醍醐天皇の皇子である

護良親王(もりよししんのう)と共に河内国の

上赤坂城や金剛山に築いた千早城に籠城し

ゲリラ戦法などを駆使して幕府の大軍を相手に奮戦し

倒幕に向けて戦を続けていたんだぞ🫵😒


(護良親王⬇️)



そんな正成に触発された足利尊氏

新田義貞赤松則村などが

次々と倒幕の兵をあげていったんだな‼️

そしてついに‥‥

元弘3年(1333)

鎌倉幕府滅亡

後醍醐天皇が都へ凱旋する際に正成は

兵庫まで出迎え同道警護についたんだ‼️





鎌倉幕府が滅亡したんで後醍醐天皇

建武の新政を行ったんだな‼️

しかしだな…この建武の新政っていうのが

貴族や寺院が権力と財力を持つ仕組みで

倒幕のため働いた武士達には

何の得もない政治だったんだよな🫵😒

倒幕のために働いた武士達からは

不満の声が高まる事になっていって…

その不満を足利尊氏に相談したんだ‼️

足利尊氏たちの不満の気持ちも理解が出来る

正成後醍醐天皇

武士の待遇を改善してもらえるよう願い出るんだが

それは残念ながら聞き入れてもらえずに

足利尊氏たちは挙兵することにしたんだ‼️

正成は武士でありながらも後醍醐天皇への

忠義心を貫き足利尊氏たちとは袂を分かって

闘う事になっていくわけだ‼️




建武3年(1336)1月

後醍醐天皇に叛旗を翻した足利尊氏

関東から進軍し京を目指すんだけど正成

新田義貞北畠顕家なんかとの

摂津の豊島河原の戦いに敗れ

足利尊氏は九州に逃亡することになったんだ‼️

でも正成からしたら今の公家政治じゃ再び

足利尊氏が攻めてきたら対抗できないって事が

わかっていたらか後醍醐天皇に対し

足利尊氏と和睦することを進言するんだが

 この進言は通らないんだな🫵😒

そんな中で足利尊氏

着々と九州で勢力を盛り返していったんだ‼️

それを脅威に感じた後醍醐天皇

足利勢の播磨の赤松円心の追討を

新田義貞に命じるんだが

なかなか赤松円心の追討できないんだ‼️

新田義貞がグズグズしてる間に

九州や四国の勢力を傘下にいれた足利尊氏

大軍を率い京に向け船団で進軍をはじめた‼️

この報を受けた正成後醍醐天皇

防衛に不向きな京から朝廷を一時的に比叡山へと

退避させて足利尊氏を京に引き入れた上で

兵糧攻めにしながら包囲殲滅するという戦術を

進言するんだが…この進言も通らなかったんだ‼️

正成後醍醐天皇から新田義貞の援軍に

兵庫に向かって足利勢を迎えうって

そこで戦うようにを命じられたんだ🫵😒

戦上手の正成

この戦に勝算が無い事はわかっていたんだが

ここでも正成は忠義の道を選んだんだな‼️

桜井の駅で正成は嫡男の楠木正行を呼び

故郷の河内に帰るよう命じるだが…

共に行きたいと言う11歳の楠木正行

『わしとオマエが

友に討死してしまったら

このさき誰が

帝をお守りするのだ!

今は身命を惜しみ

忠義の心を重んじ

一族郎党を養いまとめて

いずれ必ず朝敵を滅ぼすのだ!』

そう正成は言ったんだ…

これが有名な桜井の別れだよな🫵😒



一方の新田義貞足利尊氏の大軍の襲来に

赤松攻めを中止して後退…

だが赤松軍の追撃を受けて大きな被害を受け

新田義貞は二本松と和田岬に陣を置くんだ‼️

湊川に到着した正成は湊川の西‥‥

新田義貞の本陣の北西に陣を置いたんだ‼️

足利尊氏の軍勢は上陸し

新田義貞の陣を側面から強襲‼️

正成の陣を背後を斯波軍が襲撃‼️

細川軍は戦場より東の生田付近に上陸‼️

もうこうなると新田義貞は大混乱😵‍💫

退路を断たれること恐れ新田義貞

なんと正成を見捨てて敵前逃亡開始⁉️

そのせいで正成の軍は敵中に完全孤立するんだが

それでも一時は

足利直義に迫る奮戦をみせたんだ‼️



だが軍勢が73騎まで減ってしまい正成

死に場所を求め湊川付近の民家に入り

最期をさとった正成

『何か願いはあるか?』

そう弟の正季にと問いかけると正季

『七生まで人間に生れて

朝敵を滅ぼしたい!』

そう答えたんだな🫵😒

正成『いつかこの本懐を達せん』

そう言って弟の正季と刺し違えて自害したんだ…



この時の正季の言葉がいわゆる

七生報国

この言葉の由来なわけだがX(旧Twitter)などで

アカウント名に使っている者達などがいたり

七生報国と書き込んだりする者達がいたり

街で七生報国とプリントされているシャツを

着ている者達を見かけたりもするのだが…

この者達は七生報国がどんな意味であるのか

どんな由来があるのかという事を

ちゃんと理解し使っているのか疑問だな🫵😒



太平記では正成の最期に触れて

智・仁・勇の三徳を兼ねて

死を善道に守るは

いにしえより今に至るまで

正成ほどの者は いまだ無かりつるに

そう記している‥‥コレは

人として最善の道を守るため

死をも省みない

そんな楠木正成ほどの人はいない

そういう意味だ🫵😒




今の日本ではという言葉は

まるで古臭い

封建制度の名残のような扱いだが

というのは日本人にとって

最高の道徳心じゃないだろうか❓

を胸に我ら日本人は

生きるべきじゃないだろうか❓

今日5月25日は

楠木正成が湊川に散った日‥‥




とは何なのか…
國體とは何なのか…
それを考えるには
今日ほどいい日はないだろう‼️

『日本人よ!
私を捨て公に生きるべし!』
そう言っている大楠公の声
僕には聞こえるような気がするね❗️



皆さん‼️

どう思いましたか❓

共に日本のために‼️

全ては日本のために‼️