こんばんは😁
休日を満喫したHickeyです😁
今日は久しぶりの丸っと1日オフの日でした😁
そのオフを利用して友人と一緒に日帰りで
遠州一之宮
小國神社
ここを参拝し皆さんの御多幸や
被災地の復興を祈ってきました🙏 
本宮山も登拝してきました😅
この話は気がむいたら後日ブログ
【ぶらhmckey】シリーズで話すかも😅💦



さて昨日は【未来への提言!】

そういう題で話をさせいきました‼️


まだ御覧になってない方は
下をクリックして御覧ください⬇️

【Hickeyの今日は何の日❓🤔】
     
今日(5/11)は
慶応元年(1865)閏5月11日
土佐勤王党の盟主
武市瑞座(半平太)が切腹😔



わしゃ坂本龍馬ぜよ😁
おまんらは
武市半平太を知っちゅうがかえ
をぃをぃ‼️
銀魂の武市変平太じゃないぜよ😒



コラコラ‼️
月形半平太でもないがぜよ😒



武市半平太がいうのは武市変平太や
月形半平太のモデルになった
土佐勤王党の盟主ぜよ‼️



僕は土佐弁を良く知らないから
この話し方は非常に疲れるな💦
龍馬ごっこはココで終わり‼️
さて…
まずは武市半平太の一生を
ザックリ年表で見ていこうか☝️😒

武市半平太は
文政12年(1829)
土佐国吹井村に生まれたんだな🫵😒
これは今でいうと
高知県高知市仁井田だ‼️
幕末の生まれだと生家が
残ってたりするから凄いよな⁉️
幼名は鹿衛(しかえ)🦌
(今も人が住んでいるので中の見学は不可⬇️)

天保12年(1841)
一刀流・千頭伝四郎に入門し
剣術を学んだんだ🫵😒

嘉永2年(1849)
父母を相次いで亡くした半平太は
郷士の島村源次郎の長女である
富子と結婚㊗️

 嘉永3年(1850)
高知城下に転居し小野派一刀流の
麻田直養の元で剣術を学ぶが
スグに初伝を授かってるそうだから
結構な剣術の腕を持ってたんだな⁉️



嘉永5年(1852)
小野派一刀流の中伝を授かる‼️
この翌年がペリーが黒船で
日本にやってきた年だな🫵😒



嘉永7年(1854)
免許皆伝を伝授され
自分の剣術道場を開く‼️

安政元年(1854)
地震により家屋が倒壊⁉️
家屋を失う事に‥‥

 安政2年年(1855)
新築の自宅で妻の叔父にあたる
槍術家・島村寿之助と
共同で道場を開いたんだ‼️

(残念ながら建物は残っておらず石碑のみ⬇️)

門弟が120人も集まったんだ⁉️
門下には中岡慎太郎や‥‥



岡田以蔵などがいたりして
これが後に結成せれる
土佐勤王党の母体だな❗️
天誅組の吉村寅太郎も
半平太の道場に通ってたんだぞ🫵😒



 安政3年(1856)
半平太は岡田以蔵や五十嵐文吉らと
江戸に道場剣術修行に出て
鏡心明智流の士学館に入門‼️
桃井春蔵に見込まれ
免許皆伝を授かって
塾頭にまでなるんだぞ⁉️😳
やっぱり半平太の剣術の腕は
達人だったんだな⁉️

安政7年(1860)
岡田以蔵らを連れ剣術修行名目で
中国・九州地方など
西国の動静視察に出るんだな🫵😒

文久元年(1861)
江戸で長州藩の
桂小五郎や久坂玄瑞や高杉晋作…
薩摩藩の樺山三円…
水戸藩の岩間金平…
これらの尊王攘夷派と交流を持つ‼️
特に久坂玄瑞に心服して
久坂玄瑞の師・吉田松陰の
草莽崛起の思想に共鳴し
(そうもうくっき)
土佐勤王党を結成したんだ‼️



ちなみ…坂本龍馬も
この土佐勤王党に入ってるんだぞ‼️



草莽崛起の思想っていうのは
志のある者が立場をこえて
同じ目的を持って
いっせいに立ち上がる‼️
そういうものなんだな🫵😒
まぁ〜わかりやすくいうと
立ち上がれ民衆!

こういう事だな🫵😒




文久2年(1862)
半平太は土佐藩の公武合体政策の
推進者である
吉田東洋の暗殺を指示する…
そして高知城下で
吉田東洋暗殺
半平太と共に
土佐勤王党は参勤交代の列に加わり
江戸へと向かう‼️
更に半平太は
白札郷士から上士格に昇進‼️


(これが吉田東洋⬇️)



文久3年(1863年)8月18日
薩摩・会津両藩が公武合体派の
公家を参内させ朝議により
長州藩・急進尊攘派公家を
京都から追放するという
八月十八日の政変がおこり
半平太は
高知で投獄されてしまうんだな‼️




慶応元年(1865)
主君に対する不敬行為という罪名で
半平太は切腹‥‥



さて…ざっくりと年表で
武市半平太の生涯を見てきたが…
これだけじゃつまらないから
もう少し詳しい話をしようか‼️



土佐の國(今の高知県)ってのは
少々ややこしい國でだね🫵😒
元々は
長曾我部氏が治めていた国…
それが関ヶ原の戦いの論功行賞で
山内一豊が入国したもんだから
土佐の國の武士は
山内家の家臣である上士❗️
旧長曾我部氏の家臣である下士❗️
これにわかれていたんだな🫵😒
更に下士の中でも白札だとか
郷士にわかれてたんだな🫵😒
その身分差っていうのは
想像以上に厳しものでだった‼️
武市半平太の家は白札だったから
下士の中では身分が高い方で
いってみれば準上士の扱いだな🇯🇵😒



ちなみに龍馬は郷士だな🫵😒



三菱財閥の創始者である
岩崎弥太郎なんかは郷士の更に下…
地下浪人だったんだな🫵😒



ちなみに上士が郷士に対し
『この郷士が猪狩道をあけんか💢』
そう言ったとしても
『郷士の人権が〜』
こんな事は絶対に言われたりしない
そんな身分制度と時代…



そんな厳しい身分制度のある
土佐の國に生まれ育った半平太は
文久元年(1861)
江戸で長州の桂小五郎・久坂玄瑞•
高杉晋作や薩摩や水戸などの諸士と
交流を持つようになると欧米列強が
日本に圧力をかける今こそ
尊王攘夷のために身分を問わず
志のある者が起つべきだという
思想を持つようになり
土佐勤王党を結成するわけだが
土佐で同志を募ったら
龍馬をはじめ平井収二郎や
吉村寅太郎や中岡慎太郎や
岡田以蔵や間崎哲馬‥‥
あれよあれよという間に
なんと192人が集まったんだ‼️
まぁ土佐勤皇党に集まったのは
龍馬や平井収二郎みたいな郷士とか
中岡慎太郎や吉村寅太郎みたいな
庄屋の息子であるとかであって
上士達じゃなかったんだがね🫵😒
土佐勤皇党を結成した
半平太は土佐藩が長州や薩摩に
遅れをとらぬよう土佐藩あげて
尊王攘夷を実行するのが目的‼️
でも土佐藩の参政だった
吉田東洋は公武合体派だった‼️
更に身分の上下が厳しい
土佐藩の中で土佐勤皇党に
集まってるのは下士や郷士ばかり…
上士の吉田東洋らからしたら
藩の秩序が乱れてしまうから
下士や郷士ふぜいが
藩政に口を挟むなんてのは絶対に
許せない事だったわけだな🫵😒

こういう土佐藩の体質が嫌になった
龍馬なんかは脱藩を決意して
土佐から出ていったんだな‼️



半平太は
吉田東洋と対立する重臣たちと
吉田東洋を排斥する計画を練り
そして‥‥
文久2年(1862)4月に
土佐勤王党・3人に
吉田東洋を暗殺させたんだな🫵😒
時代は混迷期だったし
土佐藩を改革し更に長州や薩摩に
遅れをとらないようにするには
吉田東洋を暗殺するしかないと
考えた結果だったんだろうな🫵😒



吉田東洋を暗殺した後は
半平太の意向で藩政が
動きだすことになっていって
参勤交代で藩主・山内豊範が
江戸に向かう際に土佐勤王党も
その列に加わえてもらえたんだ⁉️
山内豊範が参勤交代の途中で
京都に入ると朝廷から京の警備と
国事周旋を命じられ
その役を山内豊範は
なんと土佐勤王党に任せたんだな⁉️
まぁ~これは事前に半平太が
朝廷に根回ししてたんだがね🫵😒
他藩応接役を命じられた半平太は
三条木屋町に居を構えるんだ❗️
そしてそこで他藩の志士たちや
尊攘派の公家たちと交流を
深めていく事となるんだな🫵😒



その一方で半平太は安政の大獄で
幕府のために働いた人たちを
【天誅】と称して
岡田以蔵らに暗殺させたんだな🫵😒
半平太は他藩の志士から
【南海の墨龍】なんて呼ばれてて
この頃が半平太の
人生の絶頂期だったんだよな🫵😒

でもな‥‥
その絶頂期は
突然の終わりを告げるんだな‼️
文久3年(1863)8月18日
八月十八日の政変が起きて
朝廷から
尊攘派が一掃されてしまうんだ‼️
尊王攘夷を掲げていた土佐勤王党も
ここから一気に流れが悪くなり
土佐の前藩主・山内容堂が
土佐勤王党を追い詰めていくんだ❗️
山内容堂は暗殺されてしまった
吉田東洋を信用してたし
思想が公武合体派だったからな🫵😒



『たとえ土佐一藩となっても
勤王を通すべきだ!!』
そう考えた半平太は
それを前藩主・山内容堂に説くため
京から土佐へ戻るんだが…
捕縛されて投獄されてしまうんだ❗️
人斬りとして恐れられた
あの岡田以蔵も捕まったし
他の土佐勤王党の志士も
次々と捕縛され投獄されてしまい
そして日々拷問にかけられたんだ❗️
でも半平太は身分が白札だから
準上士格であったため
拷問はされなかったんだなぁ‥‥
半平太の牢には土佐勤王党の
仲間たちの悲鳴が毎日きこてくる‥
それを聞く半平太は
心底辛かっただろうなぁ😔
やがて半平太には
主君への不敬の罪が言い渡され
切腹を命じられた半平太は
いまだ誰もなしえなかったという
三文字割腹という作法をとり
見事に三文字に腹を掻っ捌き
散ってみせたんだ‼️
三文字割腹…
なぜこれを半平太は選んだのか…
これは白札郷士だった自分が
上士ですら成しえなかった
三文字割腹を成しえる事により
誠の武士とは
これを自分の死に様で示し
武士としての意地を貫いた‼️
そういう事だったんじゃないかな❓




【武市半平太の辞世の句】

ふたゝびと
    返らぬ歳を
           はかなくも
               今は惜しまぬ
                   身となりにけり


武市半平太  享年37(満35)
まさに時代に翻弄された人生‥‥



半平太は
坂本龍馬や中岡慎太郎と共に
今でも高知の人に愛されている‥
それは半平太が土佐の事を
一心に思い土佐のために
働いたからだと僕は思うんだな…
人の散り様は人の生き様!
これこそが我々が半平太から
学ぶべき大事な事だと僕は思うね‼️


皆さん‼️

どう思いましたか❓

共に日本のために‼️

全ては日本にために‼️