【ぶらHickey・豊川市牛久保 その1
〜今川義元に会いに行こう〜】
そういうタイトルで
愛知県豊川市牛久保町にある大聖寺の
今川治部大輔義元の胴塚の話を
延々とさせていただきました(笑)
付き合わされた皆さんは苦痛だったでしょ
まだ前回のブログを読まれてない人は
こちらから御覧ください⇩
さて…今回は前回の続編という事で
【ぶらHickey・豊川市牛久保 その2
〜山本勘助に会いに行こう〜】
そういうタイトルで話をさせていただきます
前回も牛久保城の古地図を
皆さんには見てもらいましたよね
古地図に町通りと書かれているのが
伊奈街道で今の宿谷川線という道です
古地図に若宮と書かれているのが牛久保八幡社
若宮は仁徳天皇が祀られていた神社で
そこに牧野古白が牛窪の守り神として
応神天皇を合祀したから八幡社になったんだよ
八幡社と一色城は
伊奈街道を挟んだ形で南北に並んでいたことが
この古地図からわかるよね
古地図にある牛久保城というのは
享禄2年(1529)に
牧野氏によって築城された城なんだよね
牛久保城は豊川の古い河岸段丘を利用した
二重の水堀を持っていて櫓も4つほどあり
更に牛久保城の城下町は
牛久保城へは真っ直ぐに入れる道がなく
全て曲尺手だった事が古地図からもわかるね
この牛久保城は今川領の城だったから
桶狭間の戦のあと今川家の桎梏から離れた
松平元康の奇襲攻撃をうけてるんだよね
(後の徳川家康)
桶狭間の戦の翌年である永禄4年(1561)に
松平元康は織田信長と秘密裏に和睦するんだ
それにより今川家の桎梏から離れた松平元康は
三河全土を領国にするため動きだすんだわ
当時の東三河は今川領だったため
松平元康は東三河の国衆だった
菅沼氏や西郷氏や設楽氏などの調略を進め
三河の要地だった牛久保城の攻略を図るんだ
この頃の牛久保城は城主の牧野成定が
西尾城の守備に出ていたため城代が守ってて
正直なとこ牛久保城の守備は手薄だったんだ
そんな中4月11日に松平元康は
牛久保城に夜襲をかけたんだよね
圧倒的に不利だった牛久保留守部隊だけど
多くの戦死者を出しながらも必死に戦い
松平元康の夜襲は失敗に終わるんだよ
この事はすぐに駿府の今川氏真に報告され
(義元の嫡子)
松平元康が織田信長と秘密裏に
和睦を結んだ事を知らない今川氏真は
『謀反か松平元康め』と怒って
牛久保城に援軍を送り
松平元康に猛攻をくわえるんだわな
この戦に負けた松平元康は
永禄5年(1562)に織田信長と同盟を結んで
今川治部大輔義元からの偏諱である
元の字を返上し名を元康から
家康に改める事になるんだよ
このあと時代は進んでいき
牛久保城は徳川家→豊臣家と城主がかわり
更に関ヶ原の合戦の後には天領になり
城から代官所になりながらも
元禄13年(1700)に廃城になるまで
立派にその役目を果たしていくんだよ
さて…そんな事を言っているうちに
長谷寺(ちょうこくじ)に着きました
なになに
【山本勘助のふるさと】だと
そうなんです…この長谷寺には
山本勘助の墓があるんです
『なんでHickeyは驚いてるの』
そう思った人もいるかと思います
いや…だってあんた…山本勘助だよ山本勘助
この山本勘助なる人物……
実は今川治部大輔義元と深い因縁のある人物で
その2人に縁がある場所が
同じ牛久保町にある事を俺は驚いてるんだよ
皆さんは山本勘助って人物を知ってますか
『山本勘助くらい知ってるよ』
そう言われちゃうと今回のブログは
ここで話が終わってしまうので
『山本勘助? 誰それ?聞いたこともない』
そう話を合わせてくださいな
今回も忖度忖度(笑)
この山本勘助というのは
武田信玄の軍師だった人物です
皆さんも山勘って言葉を使うでしょ
その語源になっている人が
山本勘助だって知ってましたか
平成19年の大河ドラマ覚えてますか
風林火山です
ほらっ 内野聖陽が主役でさ
市川亀治郎が武田信玄の役でさ
何故かGACKTが上杉謙信の役だったドラマ
このドラマは山本勘助が主役で
内野聖陽が演じてた役が山本勘助だよ
この山本勘助という人物は
実は『架空の人物なんじゃないか?』
そう言われていた人物なんだよね
武田家というのは滅亡してしまったため
実は案外と資料が少ないんだよね
そんな中で武田家の戦略や戦術ついて書かれた
甲陽軍鑑という軍学書があって
そこに出てくる武田家の姿が長年ずっと
真の武田家の姿だと思われてきたんだわな…
だけどさ甲陽軍鑑が書かれたのは江戸時代…
よく読みこんでいったら矛盾する部分やら
時代に合わない事がいっぱい記載されていて
歴史書としての信憑性が疑われるんだわな
そんな事もあって甲陽軍鑑に出てくる
山本勘助も実在人物じゃないんじゃないかって
疑われていた時代があったわけよ
近代になり武田家については
色々な古文書の発見や民間伝承や発掘調査等々で
実像がだいぶわかってきたんだわな
そんな中で昭和44年になって
北海道釧路市で後に市川文書と言われる
一枚の書状が発見されるんだわな
この市川文書を保管していた市川氏は
明治期に屯田兵として北海道に移住してて
祖父の代の遺品を整理していた際に
武田信玄の書状を発見
そこには山本菅助という
名前がハッキリと記載されていて
軍使をしていた事をわかったんだよ
当時の軍使というのは
家中の身分の高い武将を使いに出していたので
山本勘助(菅助)も
身分が高い武将だったって事だよね
この他にも近年では平成21年に
群馬の安中市で武田信玄が山本勘助(菅助)に
出した書状も発見されているだよ
こうした資料の発見から現在では
山本勘助(菅助)架空人物説論争には
ピリオドがうたれているんだよ
ちなみに下の写真は市川文書
山本勘助(菅助)は明応9年(1500)の
8月15日に八名郡賀茂村で生まれました
(現・豊橋市賀茂町)
(明応2年(1493)生まれ説もあるけど)
山本勘助(菅助)の家系は清和天皇の後裔である
新羅三郎義光(源義光)の三世
山本遠江守義貞から出たといわれてるんだ
山本家は代々駿河国富士郡に住み
山本伝次郎幸綱の時に三河国八名郡賀茂荘に
二千五百石を与えられて移住したんだ
幸綱の子が山本帯刀(たてわき)で
賀茂神社の神官などをしてたんだってさ
その帯刀の子が山本光幸で
その光幸には三人の子がいて
長男が清七次男が清助三男が源助
この源助が後の山本勘助(菅助)なんだ
源助が15歳になった時に牛久保城主牧野家の家臣
大林勘左衛門貞次の養子になって
名を大林勘助貞行に改めたんだんだよ
勘助は26歳になって武者修行に出てるから
約11年間この牛久保で過ごしたんだね
さて…近畿や山陰山陽や四国や九州を周り
武術や軍学を学んだ勘助は高野山を訪れます
その高野山で十七日間の断食修行をしてたら
十七日目の夜に高僧が勘助の目の前に
ふと現れ左手を差し出しながら
『この像は香木を彫刻した摩利支天像だ!
お前の修行をやりきった姿に感心した!
だからこの像を授ける!
この像を守り本尊とせよ!
我が名は当山を開いた空海であるぞ!』
こう言う夢を勘助は見たんだと
驚いた勘助が目をさますと枕元には
小さな摩利支天像があったんだとさ
そんなエピソードもある武者修行を終え
勘助は35歳になり牛久保に戻ってきました…
…が…武者修行に出ている間に大林家には
実子が生まれてたんだわな
そんな事もあって養子縁組を切って
勘助は山本に姓を戻し関東へ向かうんだ
勘助が37歳の時に今川家に仕官しようと
駿河にいくんだけど今川治部大輔義元は
勘助を一目見て色黒で隻眼で容貌醜く
更には足がちんばで身体に無数の傷があったので
その異形を嫌って召しかかえなかったんだ