皆さんおねがい こんにちはおねがい


さて…前回のブログは

【ぶらHickey・豊川市牛久保  その1

                         〜今川義元に会いに行こう〜】


そういうタイトルで


愛知県豊川市牛久保町にある大聖寺の


今川治部大輔義元の胴塚の話を


延々とさせていただきましたてへぺろ(笑)


付き合わされた皆さんは苦痛だったでしょ?口笛


まだ前回のブログを読まれてない人は


こちらから御覧ください⇩ウインク


【ぶらHickey・豊川市牛久保 その1 】


さて…今回は前回の続編という事で


【ぶらHickey・豊川市牛久保  その2

                         〜山本勘助に会いに行こう〜】


そういうタイトルで話をさせていただきますウインク



今回も前回と同様にキャス動画との

連動企画なんでまだ御視聴でない方は

こちらから録画を御視聴ください⇩ウインク


さて…今回の配信は下図のように

牛久保八幡社からスタートをして

今川治部大輔義元の胴塚のある大聖寺へウインク

当日(5/19)が

今川治部大輔義元の命日だったので大聖寺で

御霊供養のため墓前で手を合わせてきましたお願い

その後は一度また牛久保八幡社の前へ戻り

伊奈街道を西に向かって歩いていき

常盤という十字路を北に折れて

長谷寺へ向かいました あしあと

ちなみに配信中で俺が【いな街道】と言ったのを

長野県の伊那街道と勘違いした人がいるようですが

俺が配信中で言った【いな街道】は

伊奈街道で豊川市伊奈町に続く街道です口笛



前回も牛久保城の古地図を


皆さんには見てもらいましたよねウインク


古地図に町通りと書かれているのが


伊奈街道で今の宿谷川線という道ですウインク


古地図に若宮と書かれているのが牛久保八幡社ウインク


若宮は仁徳天皇が祀られていた神社で


そこに牧野古白が牛窪の守り神として


応神天皇を合祀したから八幡社になったんだよウインク


八幡社と一色城は


伊奈街道を挟んだ形で南北に並んでいたことが


この古地図からわかるよねウインク


古地図にある牛久保城というのは


享禄2年(1529)に


牧野氏によって築城された城なんだよねウインク


牛久保城は豊川の古い河岸段丘を利用した


二重の水堀を持っていて櫓も4つほどあり


更に牛久保城の城下町は


牛久保城へは真っ直ぐに入れる道がなく


全て曲尺手だった事が古地図からもわかるねウインク


この牛久保城は今川領の城だったから


桶狭間の戦のあと今川家の桎梏から離れた


松平元康の奇襲攻撃をうけてるんだよねガーン

(後の徳川家康)


桶狭間の戦の翌年である永禄4年(1561)に


松平元康は織田信長と秘密裏に和睦するんだ !?


それにより今川家の桎梏から離れた松平元康は


三河全土を領国にするため動きだすんだわびっくり


当時の東三河は今川領だったため


松平元康は東三河の国衆だった


菅沼氏や西郷氏や設楽氏などの調略を進め


三河の要地だった牛久保城の攻略を図るんだ!?


この頃の牛久保城は城主の牧野成定が


西尾城の守備に出ていたため城代が守ってて


正直なとこ牛久保城の守備は手薄だったんだ!?


そんな中4月11日に松平元康は


牛久保城に夜襲をかけたんだよねびっくり


圧倒的に不利だった牛久保留守部隊だけど


多くの戦死者を出しながらも必死に戦い


松平元康の夜襲は失敗に終わるんだよてへぺろ


この事はすぐに駿府の今川氏真に報告され

                                  (義元の嫡子)


松平元康が織田信長と秘密裏に


和睦を結んだ事を知らない今川氏真は


『謀反か!松平元康めムキー』と怒って


牛久保城に援軍を送り


松平元康に猛攻をくわえるんだわな ドンッ


この戦に負けた松平元康は


永禄5年(1562)に織田信長と同盟を結んで


今川治部大輔義元からの偏諱である


元の字を返上し名を元康から


家康に改める事になるんだよ びっくり


このあと時代は進んでいき


牛久保城は徳川家→豊臣家と城主がかわり


更に関ヶ原の合戦の後には天領になり


城から代官所になりながらも


元禄13年(1700)に廃城になるまで


立派にその役目を果たしていくんだよおねがい



さて…そんな事を言っているうちに


長谷寺(ちょうこくじ)に着きましたウインク


なになにキョロキョロ


【山本勘助のふるさと】だと!? びっくり


そうなんです…この長谷寺には


山本勘助の墓があるんです!?びっくり




『なんでHickeyは驚いてるの?キョロキョロ


そう思った人もいるかと思いますニヤリ


いや…だってあんた…山本勘助だよ山本勘助えー


この山本勘助なる人物……


実は今川治部大輔義元と深い因縁のある人物で


その2人に縁がある場所が


同じ牛久保町にある事を俺は驚いてるんだよびっくり


皆さんは山本勘助って人物を知ってますか?


『山本勘助くらい知ってるよてへぺろ


そう言われちゃうと今回のブログは


ここで話が終わってしまうので


『山本勘助?  誰それ?聞いたこともないガーン


そう話を合わせてくださいな口笛


今回も忖度ウインク忖度おねがい(笑)


この山本勘助というのは


武田信玄の軍師だった人物ですウインク


皆さんも山勘って言葉を使うでしょ?口笛


その語源になっている人が


山本勘助だって知ってましたか?口笛


平成19年の大河ドラマ覚えてますか?


風林火山ですウインク


ほらっえー 内野聖陽が主役でさ


市川亀治郎が武田信玄の役でさ


何故かGACKTが上杉謙信の役だったドラマえー


このドラマは山本勘助が主役で


内野聖陽が演じてた役が山本勘助だよウインク


【大河ドラマ・風林火山・オープニング曲】



この山本勘助という人物は


実は『架空の人物なんじゃないか?』


そう言われていた人物なんだよねガーン


武田家というのは滅亡してしまったため


実は案外と資料が少ないんだよねびっくり


そんな中で武田家の戦略や戦術ついて書かれた


甲陽軍鑑という軍学書があって


そこに出てくる武田家の姿が長年ずっと


真の武田家の姿だと思われてきたんだわな…


だけどさ甲陽軍鑑が書かれたのは江戸時代…


よく読みこんでいったら矛盾する部分やら


時代に合わない事がいっぱい記載されていて


歴史書としての信憑性が疑われるんだわなガーン


そんな事もあって甲陽軍鑑に出てくる


山本勘助も実在人物じゃないんじゃないかって


疑われていた時代があったわけよガーン


近代になり武田家については


色々な古文書の発見や民間伝承や発掘調査等々で


実像がだいぶわかってきたんだわなウインク


そんな中で昭和44年になって


北海道釧路市で後に市川文書と言われる


一枚の書状が発見されるんだわなウインク


この市川文書を保管していた市川氏は


明治期に屯田兵として北海道に移住してて


祖父の代の遺品を整理していた際に


武田信玄の書状を発見!?びっくり


そこには山本菅助という


名前がハッキリと記載されていて


軍使をしていた事をわかったんだよウインク


当時の軍使というのは


家中の身分の高い武将を使いに出していたので


山本勘助(菅助)も


身分が高い武将だったって事だよねウインク


この他にも近年では平成21年に


群馬の安中市で武田信玄が山本勘助(菅助)に


出した書状も発見されているだよウインク


こうした資料の発見から現在では


山本勘助(菅助)架空人物説論争には


ピリオドがうたれているんだよウインク


ちなみに下の写真は市川文書おねがい




山本勘助(菅助)は明応9年(1500)の


8月15日に八名郡賀茂村で生まれましたウインク

(現・豊橋市賀茂町)


(明応2年(1493)生まれ説もあるけどガーン


山本勘助(菅助)の家系は清和天皇の後裔である


新羅三郎義光(源義光)の三世


山本遠江守義貞から出たといわれてるんだウインク


山本家は代々駿河国富士郡に住み


山本伝次郎幸綱の時に三河国八名郡賀茂荘に


二千五百石を与えられて移住したんだウインク


幸綱の子が山本帯刀(たてわき)で


賀茂神社の神官などをしてたんだってさびっくり


その帯刀の子が山本光幸で


その光幸には三人の子がいて


長男が清七!次男が清助!三男が源助!


この源助が後の山本勘助(菅助)なんだウインク


源助が15歳になった時に牛久保城主牧野家の家臣


大林勘左衛門貞次の養子になって


名を大林勘助貞行に改めたんだんだよウインク


勘助は26歳になって武者修行に出てるから


約11年間この牛久保で過ごしたんだねおねがい


さて…近畿や山陰山陽や四国や九州を周り


武術や軍学を学んだ勘助は高野山を訪れますおねがい


その高野山で十七日間の断食修行をしてたら


十七日目の夜に高僧が勘助の目の前に


ふと現れ左手を差し出しながら


『この像は香木を彫刻した摩利支天像だ!

   お前の修行をやりきった姿に感心した!

   だからこの像を授ける!

   この像を守り本尊とせよ!

   我が名は当山を開いた空海であるぞ!』


こう言う夢を勘助は見たんだと!?


驚いた勘助が目をさますと枕元には


小さな摩利支天像があったんだとさびっくり


そんなエピソードもある武者修行を終え


勘助は35歳になり牛久保に戻ってきました…


…が…武者修行に出ている間に大林家には


実子が生まれてたんだわなびっくり


そんな事もあって養子縁組を切って


勘助は山本に姓を戻し関東へ向かうんだ!?


勘助が37歳の時に今川家に仕官しようと


駿河にいくんだけど今川治部大輔義元は


勘助を一目見て色黒で隻眼で容貌醜く


更には足がちんばで身体に無数の傷があったので


その異形を嫌って召しかかえなかったんだびっくり



今川家に仕官できなかった山本勘助は

鬱々とした日々を過ごしてたんだけど

天文12年(1543)に転機が訪れるんだ照れ

勘助の築城術(城取り)が

優れているという噂を耳にした武田家の重臣

板垣信方は武田信玄に勘助を推挙したんだウインク

武田信玄は勘助と面会し

勘助の軍略知識や築城術を即座に気に入り

勘助を知行200貫で召しかかえたんだよ照れ

こうして武田家に召しかかえられる事になった

勘助は甲斐国へ出立する前に縁がある

牛久保の長谷寺を訪ねて出家して

法名を道鬼と改めて自身の襟かけ守護本尊である

摩利支天像と遺髪を念宗和尚に託したんだおねがい

牛久保にある長谷寺の摩利支天像は

この時の勘助に託された摩利支天像なんだよウインク


さて…川中島の戦いは5回おこなわれてますが

実は詳細はわかっていないんだよねびっくり

第4次川中島の戦いでは

きつつき戦法という戦法が出てきますが

現地に行ってみるとわかるんだけど

夜中に上杉謙信のあった妻女山を背後から

夜襲するのは無理がありすぎるんだよねガーン

だからきつつき戦法はなかったと思うガーン

また上杉謙信が武田本陣に斬り込む話…

あれも武田の守備が弱かったと思われないように

後から創り上げられた話だと思うガーン


永禄4年(1561)におきた

第4次川中島の戦は大激戦だったのは確かです…

そこで山本勘助も討ち死にしてますお願い

この牛久保の長谷寺には

山本勘助の遺髪を埋葬した墓がありますお願い


生前に因縁のあった

今川治部大輔義元と山本勘助…

今川治部大輔義元は永禄3年に桶狭間で…

山本勘助は翌年の永禄4年に川中島で…

それぞれが討死をしていて

その因縁のある二人の墓が

豊川市の牛久保という小さな集落にある…

何か歴史の浪漫を感じますよねおねがい


今回は豊川市の牛久保から2回にわたり

戦国浪漫あふれる話をさせていただきたしたおねがい

それじゃ〜また次回照れ