皆さん

おねがい こんにちはウインク


さて…突然クイズですが

5月19日は何の日だったでしょうか?口笛

はい!ブッブゥ〜時間切れ!残念でしたてへぺろ

5月19日というのは尾張の國の桶狭間で

桶狭間の戦があった日であり

今川治部大輔義元の命日でもありますお願い
(いまがわじぶのたゆうよしもと)


俺の住んでいる三河地方というのは

今川治部大輔義元ゆかりの地が数多くありますウインク

今まで俺が【ぶらHickey】で紹介した中でも

豊川稲荷・安久美神戸神明社・吉田城

吉田神社などなど言い出したらキリがないほど

今川治部大輔義元

非常に深い縁のある地が出てきましたよねウインク


代表的な所として豊川稲荷の動画配信の録画を😊
まだ御視聴になってない方は
下をクリックして御視聴ください⬇️



さて…そんな今川治部大輔義元ですが

豊川市の牛久保町に墓があるって知ってました?

『そんなの知ってるに決まってんじゃんてへぺろ

そう言われると今回の話ここで終わっちゃうんで

『えっ!?豊川市に!?マジで!?びっくり

そんな感じで少々おおげさに驚いて

話を俺に合わせてくださいねぇ〜ウインク

忖度ウインク 忖度おねがい(笑)

また今回の話も

キャスの動画配信との連動企画ですウインク

動画配信の録画と合わせて楽しんでくださいおねがい

(動画の録画はコチラから⬇️ 照れ



今回の【ぶらHickey】は下の図のように

牛久保八幡社からスタートして

大聖寺長谷寺という

2つの寺院を巡るものでしたウインク

豊川市の牛久保町というのは

別にそこまで有名な町じゃないし

人口も少ない小さな集落です……

だけど牛久保町にある大聖寺長谷寺には

歴史好きな人…特に戦国史が好きな人には

ビックリするような人の墓があるんですウインク


牛久保に鎮座する牛久保八幡社

奈良時代から鎮座していたというんだから

この牛久保という地には

割に古くから集落があった事がわかるよねウインク

この牛久保八幡社

古地図には八幡社と書いてあり

牛久保八幡社と呼ばれるようになったのは

室町時代になってからみたいなんだよね口笛

『んじゃ〜元の地名は牛久保じゃなかったのキョロキョロ

そう思った人もいるかと思いますウインク

そうなんです…室町時代まで

この地は長山常荒って地名だったんだよびっくり
     (ながやまとこさむ)

まぁ地名からみてもわかるように

恵まれた土地じゃなかったんだろうねガーン

その長山常荒が【牛窪】という地名になり

今は牛久保という字をあててるんだよねウインク

なんで牛窪って地名になったかだって?えー

それにはある伝承があるんだウインク

この地がまだ長山常荒と呼ばれていた時代に

今の大聖寺の辺りには

一色城という城があったんだよニコニコ

この一色城というのは関東公方であった

足利持氏の家臣・一色刑部少輔時家
      (いっしきぎょうぶしょうゆうときいえ)

永享の乱に敗れ同族の三河一色氏のもとに

落ちのびてきた時に築いた城ウインク

だけどこの一色刑部少輔時家

文明9年(1477)に家臣の波多野全慶に殺されて

一色城ごと奪われちゃうんだよねガーン

だけど波多野全慶が今度は

同じ一色刑部少輔時家の家臣だった

牧野古白に殺されちゃうんだわなガーン

さて…そんな時代の話…

この長山常荒は大昔は川べりの土地で

川の水がひき陸地になってからも

河岸段丘で窪地がたくさんあったんだびっくり

その窪地の一つに大きな牛がいたんだわな牛

その牛は長山常荒の人々を

窪地で通せんぼしてたんだってさ牛 ガーン

そこへ牧野古白がプラプラと歩いてきたら…

あら不思議!?

牛は起きあがり自ら道をあけて

牧野古白を通してあげたんだってさびっくり牛

そこで牧野古白長山常荒という

あまり縁起のよくない地名を

牛窪という地名にかえたんだってさ牛ウインク

それが牛久保(牛窪)の地名の由来なのさウインク

そんな話をしているうちに大聖寺に到着ウインク

看板にも書かれている通り

ここは今川治部大輔義元の御廟所であり

なんと胴塚があるんです!?


ちなみに今川治部大輔義元のこと

皆さんはどれくらい知ってるんですかね?口笛

『名前は知っているけど詳しく知らないガーン

『桶狭間の戦で討死にしたことしか知らないガーン

正直そんな人が多いんじゃないですかねキョロキョロ

まぁ〜今川治部大輔義元については日を改めてウインク

ドラマなんかで皆さんが

イメージしていた今川義元

実際の今川治部大輔義元では

かなり違いがあるんだよねぇ口笛


今川家といえば駿河の国の大名のイメージだけど
                     (現・静岡県)

今川治部大輔義元の父・今川氏親の時代には
                                 (いまがわうじちか)

三河を越えて尾張の根古野まで
              (今の名古屋城あたり)

領地を拡大していただよねびっくり

その今川氏親が亡くなった時に今川家では

いわゆるひとつの御家騒動が勃発し

その隙をついて尾張の国の織田信秀
                     (織田信長の父ちゃん)

西三河に侵攻し安祥城を奪取したりして
                      (現・安城市)

今川氏と織田氏っていうのは

義元や信長の親父の時代から

激しい領地争いを繰り広げてたんだわびっくり

そんな中で桶狭間の戦は起きるわけさえー

皆さんも中高生の頃にさ桶狭間の戦って

反日馬鹿教師の国史の授業なんかで

『今川義元は天下をとるため上洛を狙い
              その途中で桶狭間の合戦がおきました』

そんな風に習ったと思うんだよねえー

でも本当に今川治部大輔義元

天下を狙って上洛をしようとしてたのかなえー

この時代の今川治部大輔義元の事を調べると

全く上洛工作をしてないんだよねえー

京の公家などと全く連絡をとりもせず

上洛するなんて考えられない話だし

美濃の斎藤氏近江の六角氏などとも

同盟を結んだ形跡もない……

同盟を結んでないって事は

仮に織田氏を倒した後も斎藤氏とか六角氏と

戦って勝ち抜かなきゃいけないわけだよえー

それを考えたら軍勢だって少な過ぎるわなえー

そういう事を調べていけば

反日馬鹿教師が我々に教えていた

『今川義元は天下をとるため上洛を狙い
              その途中で桶狭間の合戦がおきました』

これはおかしいってスグにわかる話なんだよえー

桶狭間の戦ってのは

織田氏と今川氏の間でおきた国境の戦!

当時の織田領と今川領の国境は

鳴海〜大高のラインなんだよねえー

そしてその鳴海と大高にあった

鳴海城と大高城は今川氏の城!

その鳴海城の周りに織田氏は

丹下砦と善照寺砦と中島砦を築き

更に大高城の方にも織田氏は

鷲津砦や丸根砦を築いていたから

鳴海城と大高城は飛び地みたいにされ

孤立しかかっていたわけさえー

この鳴海〜大高ラインの国境がくずれたら

三河の方まで織田氏が入ってきちゃうから

今川治部大輔義元

大高城と鳴海城を助けるため進軍したわけ!


この桶狭間の戦今川治部大輔義元は討死…


織田方の毛利良勝に討ちとられた

今川治部大輔義元の首級は桶狭間の戦の後も

鳴海城に留まり奮戦していた

今川家の重臣・岡部元信織田信長と交渉をし

鳴海城の開城を条件に返却を要求したんだ!

織田信長桶狭間の戦の後も今川家のため

孤軍奮闘した岡部元信の忠義に感動し

今川治部大輔義元の首級を棺に納めて

鳴海城に丁重に送り届けたんだよ おねがい

岡部元信は鳴海城を織田家に明け渡し

送り届けられた今川治部大輔義元の首級を

棺に入れたまま輿に乗せて駿府にむかったんだ…

でも時期が初夏でしょ…

今川治部大輔義元の首級は腐敗してしまい

岡部元信はやむなく今川家所縁だった

東向寺に首塚を築いて
(現・愛知県西尾市)

そこに今川治部大輔義元の首級を埋葬したんだお願い


その一方で今川治部大輔義元の胴体は…

首級を討ちとられた今川治部大輔義元の胴体は

桶狭間の戦場に討ち捨てられました…

戦に敗れた今川家の家臣は

首級を討ちとられた主君の胴体を

駿府に持ち帰るために

背負って一生懸命に運びました…

だが時期が初夏であるため

やはり胴体も腐敗が進んでいってしまうんだ…

そして当時は今川領であった

三河の国の牛窪まで運んできた時に

無念であるが埋葬を決意するわけだよね…

だがここで一つ問題が発生!?

当時の牛窪は確かに今川領だったわけだけど

今川家の当主だった今川治部大輔義元

討たれしまったわけだから三河の国衆達が
                                                    (領主)

離反し織田家に寝返る可能性もあるわけさえー

その寝返りの手土産に織田家に

今川治部大輔義元の胴体を

渡してしまう可能性だってあるわけだから

誰にもバレないように埋葬しつつ

それでいて後から埋葬地が

わからなくならないようにしなきゃいけない…

家臣達は悩んだ末に

今川治部大輔義元の胴体を埋葬した所に

寺社にある身を浄めるための石の手水鉢を

置いて立ち去る事にしたんだ…

さて…月日は流れて永禄6年(1563)…

今川治部大輔義元の嫡子である

今川上総介氏真が父の三回忌の法要を
(いまがわかずさのすけうじざね)

この大聖寺で営み更に父の位牌所として

寺領の安堵を約束したりするんだわなウインク


これが今川治部大輔義元の胴塚 お願い


この胴塚は石柱で囲まれた中に宝塔があり

よく見ると宝塔は横倒しにした手水鉢を土台にし

仏塔の一種である宝篋印塔が乗せてあるのが
          (ほうきょういんとう)

写真からもハッキリとわかるでしょ?


これが今川治部大輔義元を埋葬した時に

家臣達が置いていった手水鉢…

約450年たっても当時のままなんだびっくり

ちなみに大聖寺では毎年

今川治部大輔義元の命日にあたる5月19日に

法要が営まれているんだけどさ

今年は今川治部大輔義元の生誕500周年

大聖寺の御位牌は静岡市の

今川家の菩提寺の臨済寺に運ばれて

合同供養がおこなわれたんだよお願い


ちなみに今川治部大輔義元の胴塚の横には

一色城の城主だった一色刑部少輔時家の墓が…

今川治部大輔義元一色刑部少輔時家

非業の死をむかえた者どうし…


二人の墓前で手を合わせてから

大聖寺をあとにした俺は伊奈街道へ出て

長谷寺にむかいました……

牛久保の町は昔の町割りが結構そのままびっくり

小さい集落だけど一応は城下町なんで

道がやたらクランクしていたりするんだ!?ガーン

さっきも言ったように大聖寺のある場所には

昔は一色城という城があったんだけど

牧野古白は一色城の西側に一色城より大きい

牛久保城を築いたんだわなびっくり

下の図は牛久保城の古地図なんだけど

小さな集落なのに横に並ぶように

一色城と牛久保城があるのがわかるでしょびっくり

この牛久保城は河岸段丘を利用して築かれていて

牛久保城の周りには水堀が巡らされて

城の北側は二重の堀になっていたんだねびっくり

図を見ると城を囲むように家臣の屋敷があり

その北側に町人の家が通りに面して連なり

その周辺に寺社町があるのがわかるよね口笛

割に守りがかたい城だったんだねウインク

城跡には石碑があるだけで何も残ってないけど

字名として城跡とか大手とか城下とかってあるし

道が古地図と重なるから何となくだけど

当時のことがわかる町なんだよ牛久保ってさおねがい


さて…そんな事を話しているうちに

牛久保城があった当時は寺社町だった所にある

長谷寺という寺に到着口笛
(ちょうこくじ)

でも話が長くなったし

長谷寺の話は次回にしようかね口笛

ぶらHickey・豊川市牛久保  その2へ続く〜