【複製】あゝ昭和のパ・リーグ 南海ファンやもん♪  | TAKのブログ

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主として60・70年代のサブカルチャー備忘録、いけばななど…

 ameblo、随分とサボってたな…
斎藤さんの花に関する思いは覗いていたのですが…
みんつちさんからあるSNSに近況報告をいただき、ひさびさに何かを書くかと思ったものの、ameblo空白の時間にあまりにも大きな変化がありすぎて、それはまた、ぼちぼちと。

今回は2018年5月2日にアップした記事の中で貼付した「南海ファンやもん」というミュージック動画についてです。
この記事をリライトして、自分が所属する歴史研究会のニューズレターに載せようと検索、再度聴き込んだ…ん?、哀愁に満ちた歌詞を増幅させるようなクラリネットを吹いているこの方…桂九雀師匠じゃないか!
天才桂枝雀師匠のお弟子さん。今年国立文楽劇場小ホールで私の三味線の師匠主催の会で進行役と「親子茶屋」の一席を務めて頂いた九雀師匠。同い年ということもあってそれ以降普通にお話ができる、弟子の九寿玉さんもお稽古場でよく一緒になり気楽に話せてる…

まさか6年半前に好きでアップした動画の、名前を気に留めてなかった演者さんとこんな風にお近づきになるなんて…生きてると、おもろいこと、おこるよねぇ。つくづく思いました。

【以下初出記事】
1980年。学部一回生時、南海観光バスの添乗員のアルバイトをしていた。阪神タイガースも応援していたが、以前数回書いたことがあるが、近鉄バファローズファンでもあった。そんな折、南海観光バスでは伊丹空港か新大阪へ南海ホークスの選手を送迎するというシフトがたまに入ることがあった。



 前年秋のドラフトで人気者故香川伸行選手を採り、野村克也氏退団後、慢性弱体化チームにいくばくかの光が差したかのように見えた。事実新人時代にカシオ計算機のCMにも出演し、先輩の藤原満内野手(写真)に「アラームを練習終わりの時間にセットしておいたこと」を叱られるという「三文芝居」を演じたこともご愛敬だった。

 しかし香川人気頼りでは起死回生とは至らなかった。あいかわらずチームの成績はふるわず、「陽気なキャラクターのはず」の広瀬監督は、送迎バスの中ではいつも苦虫を噛んだような表情をしていた(監督はこの年一杯で解任)。





 あまりの弱さに、生卵を投げるというようなキレるファンのふるまいもなく、照明の暗さでは川崎球場と双璧を成すすり鉢状の球場に足を運ぶ観客数も、多い時で3000人、少ない時には公表1500人だった。ん?そうだとしても、どう見ても7~800人程度しかいないような状態。バスに乗り込むまで選手をガードするという、添乗員の任務も全く発動されようもないといった状態だった。

 プロ野球ニュースではみのもんた氏が外野席でいちゃつく「アベック」や、応援席で横になって寝ているファンを揶揄したりしていたが、テレビが映し出したかどうかは記憶にないが、数人で焼き肉をしている猛者たちもいた。あゝ昭和のパ・リーグ…

 それまでとりわけ「思い入れ」のない球団ホークスだったが、添乗員のバイトで触れた、その哀愁漂う空気をして気になる球団となっていった。でも、藤井寺で河内のバファローズファンのやんちゃぶりを愉しんではいたのだけど。

 当時阪神地区にはそれぞれ土地の文化が色濃く反映された野球球団が4球団あった。強烈な個性を持った下町河内のオッサンがファンの中心である球団近鉄バファローズ、違う種類の強烈な個性を持ちながら、ファンの飛ばすヤジにペーソス一杯の南海ホークス、お上品でおとなしいファンの阪急ブレーブス、阪神工業地帯の個人経営者からこよなく愛される唯一のセ・リーグ球団の阪神タイガース。実はワタシが住んでいた場所から甲子園は、一番遠い場所にあった。



「南海ファンやもん」という歌。しみじみしていて、いいですよ。

 ちなみに南海難波球場は、通天閣から試合運びが見えるのでした。「ここや~」というタイミングでは、望遠鏡に100円玉を迅速に突っ込んで、間近に戦況をみることができるのでした。また二軍の中百舌鳥球場(それはそれは、狭うございました)は、南海高野線で難波に出る際、車内から練習風景や試合を瞬間観ることができました。



★南海ファンのヤジで秀逸なもののうちのひとつ…
 太平洋クラブライオンズの梅田邦三選手に対して、「お~~い、ウメダぁぁ~!ウメダがナンバでうろちょろすなぁ~~」



※写真はすべてお借りしました。