「無敵」の桂春蝶  | TAKのブログ

TAKのブログ

主として60・70年代のサブカルチャー備忘録、いけばななど…

 まずは超・長文御免奉りますー

 

 桂春蝶師(以下無礼ながら春蝶とする)のライフワークとも言える、一連の創作長編噺「落語で伝えたい話」の一席。今回の演目は「石と夕陽の間のペロリ」。は?何を取り上げた話なんだ?…タイトルからはからっきし内容が推察できない。だが、「ニライカナイで逢いましょう」以来、独演会では100%泣かされてきた経験則から、今度も涙腺の崩壊を覚悟し、和装で懐にハンカチならぬ「手拭い」を用意し中日の公演に出かけた。

 

 ストーリーの骨子となっているのが、地球のどこかにある国で、知的障害を持って生まれてきた男の子「ヤマト」が、科学の粋を集めた手術により知能が向上して行き、社会の捉え方、自己を取り巻く社会の文脈、他者との関わりの意味づけの解釈が変わっていく。そこに「ペロリウィルス」による流行り病(はやりやまい)による社会混乱が発生。経済と人間関係の齟齬について、社会ズレしていない状態に高度な知識を手にしたヤマトの視線から、自分を支えてくれている人々に屈託のない疑問を投げかけて自問自答していく。

 ペロリによる自粛要請によって社会経済が行き詰まり、自分を雇い優しく包んでくれていたパン工場の親方が自害してしまう。その親方はハンセン病で差別の対象であったこと、同僚の男性は犯罪者であったこと、それを承知の上で作ったパンを全て買い取ってくれていた奇特な出資者が、ペロリ下の自粛要請により倒産し、パン工場も潰れてしまったという経済の仕組みをヤマトは知ってしまう。

 

 この、社会で紡がれる温かくも、時にあまりにも不条理な経済と人間関係が「世間」と称されることに、作者で演者である春蝶はストーリー全体のエッセンスを集約させた。

 

 この話は「ある国」の「ペロリ禍」を題材としているが、主人公たるヤマトという名称のメタファーからわかるように、明らかに日本の「コロナ禍」による社会経済問題、「世間」に支配的である空気の不条理さを訴えている。新型コロナの恐怖を煽るマスコミの影響と政府による自粛要請により、経済の疲弊、文化の崩壊が至る所で発生してしまい、「ソーシャル・ディスタンス」の掛け声により人と人との物理的距離に加え、精神的な距離さえ「ディスタンス」となる空気を醸成してしまった、令和2年の日本の問題を見事にあぶり出している。

 

 春蝶はこの異常な空気に対して春先からデータに基づき、新型コロナによる死者数とインフルエンザや交通事故による死者数という客観的データを比較し続け、報道の異常性について折に触れ言及してきた(この話では日本のマクロデータも用いている)。しかもそれは流行り病を安全な場所…洛外の庵…からシニカルに見ていた鴨長明(方丈記)風にではなく、春蝶自身が実際に仕事ができない、生活が苦しい、それ以上に話す場所を取りあげられた自粛期間の表現者の苦しみを、生身の人間として日々悶々としている状況と社会に蔓延する重い空気について、SNSを通じその空気の異常性に加え、落語界のみならず伝統芸能あるいはライブハウス存続の危機をなどを絶えず発信してきたことに基づいた話の構築となっている。

 この空気の異常さを、仮想国という想定と高い知能を手にした無垢な心を持った知的障害者の視点を借りて痛烈に批判すると同時に、本当の愛とは何かという大命題について、題目に仕込んである「石」の存在のクローズアップと、知能が元に戻ってしまうことを知ったヤマトが、知的障害状態だった自分の幻影と語り合うことによって示される。

 石を媒介としてこの話の着地点に春蝶自身の願望が込められている。話の構成は「落語」というカタチを借りているが、これはもう春蝶の描くひとつの「コスモス」(宇宙観)であり、安易に「オチ」とは言えない話の終焉が待っているが、この文章でここの部分はネタバレになりかねないので敢えて触れないように留意した。なおこの一文で落語を表現する「噺」という表記も、導入部分のみにしてあえて用いないようにした。

 

 ところで桂春蝶と言えば、数年前にその口に戸を立てない社会批判の姿勢から、マスコミ及びネットの世界から袋叩きの目に遭い、活動自粛にまで追い込まれた。その物言いが新鮮で、マスコミはいったん持ち上げたものの、考え方の根底部の相違が明らかになるにつれ、「反対側」の陣営から有る事無い事こき混ぜたネガティブ・キャンペーンのようなものを張られた。マスコミに誘導されたネット住民もそれに乗っかったものだから、たまらなかった。

 この頃の春蝶は理論武装もできておらず、議論をかわす術も持ち合わせていなかった。マスコミやツイッターの恐ろしさを経験する前の春蝶は、社会の問題に対してピュアな状態の、それこそ今回の話の主人公ヤマトが知識を得ていく段階に合致した状態だったのだろう。知識が飛躍的に増え、理論が構築されてくると、周囲は単なる「噺家」として扱いきれなくなり、粗探しをして「いじめ」に走った。

 犯罪者として世間からつまはじきにされているパン工場の同僚が、自らのカタルシスから、世間的に自分より下と見越したヤマトに対して暴力を伴ういじめを続け、後に知識を持ってしまったヤマトに劣等感を覚えるも、腕力での優位性を認識し、更なるいじめを続ける。落語の世界で流通するもの言いから、理論武装をし論壇に飛び出してきた春蝶を、マスコミは手に負えなくなり、露出機会や言論空間の場を奪い、ネット社会という「世間」は発言の揚げ足を取る、いやそれ以上に「ないこと・ないこと」を、匿名が積み重なって巨大な嫌がらせ集団と化し攻撃してきた。今回の話の登場人物であるパン屋の同僚の人格と行為にこの現象を埋め込んだように思われる。

 

 マスコミや世間がいったんこういう風に断罪してしまうと、後にも折につけて揚げ足を取ってくる。たとえばエルトゥルル号を取り上げた話を展開すると、歴史の歪曲だ、ひめゆり学徒隊を取り上げた「ニライカナイで逢いましょう」でさえ、当事者に話を聞き、人の心の動きを描写するも、特攻隊賛美だ、決戦地となった沖縄の取り上げ方がなってないなど、そこにいた人の心の描写をするだけでも難癖がつけられる。それが「世間」だ。桂春蝶には敵があまりにも多すぎた。

 

 さて今回の話の骨子を確認。舞台は曖昧にしてあるが、明らかに日本だ。主人公は知的障害を持って生まれてきたという、ア・プリオリに世間ずれしていない存在が、現在の医学では考えられない高度な手術により純粋に知識を得、その彼の身辺の変化から、自分が置かれていた事情がわからないまま関わってきた小さな社会(パン工場)での人間関係が、自分の知的水準の更新にともなう人間関係解釈の変化と、ペロリ禍の影響による変化が交錯する様を描き、その演繹(延長上)としてペロリ禍による社会の劇的変化を指摘。そこで発生する人間関係の複雑さ、いやらしさという空気を、春蝶は「世間」という言葉に集約していった。

 

 これは新型コロナによる社会経済問題の話だろう?だったらこの認識が誤っている、人の命の大切さと経済と秤にかけたらこっちが云々…こう言った批判というか言いがかりは、この「石と夕陽の間のペロリ」には通じない。揚げ足取られようが日本の話とは言ってません。日本の死因別死者数の比較をしていると言われましても、数字を出す時のお断りとして「日本という国では」と断っているし、知的障害が手術で治るかどうかは、創作話ですから…

 つまり春蝶は巧妙なファンタジーを描くことによって、コロナ禍で小出しにしてきた自らの考えを、攻撃が不可能な状態の話に仕上げて、舞台に足を運んでくれる直接のファンに対してぶつけてきてくれたわけだ。

 

 連戦連勝状態が「無敵」なのではない。この相手とは戦えない、戦うフェイズが違うので戦いを挑む者がおらず、自分の領域を確保し続けるというのが「無敵」状態なのであろう。つまり、この話の構成を作り上げたことによって、桂春蝶は無敵状態を創り上げた。このことは上方・江戸前関係なしに落語界の中に桂春蝶という領域が確立したのではないかと思う次第である。

 

 ただこの方の場合、再びしょうもないひと言で災いを招き入れるかもしれない。そういう危なっかしいところもこの噺家の魅力なのではあるが…