東京の街 渋谷 (2) ②昭和の忘れ形見 | TAKのブログ

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主として60・70年代のサブカルチャー備忘録、いけばななど…

 渋谷はキッチュな街だ。今でもところどころに「昭和」の空気を感じる隙間が、ある。

 ワタシは渋谷の後背地には住んだことがない。よって渋谷へは個人的には「何らかの用事」がなければなかなか出かけることはなかった。ただ、仕事で青山一丁目、南青山、宮益坂を頻繁に訪れ、渋谷乗り換えする際に駅舎から外へ出、昼食をとることがままあった。

 銀座線渋谷駅 宮益坂から青山通りを離れ渋谷駅に向かって歩いていくと、オレンジ色した車体の営団地下鉄銀座線(当時の呼称)がビルに滑り込んでいくところを目撃するにつけ、やはりここは「谷」なんだなと実感。残念ながら、今はこの風景は見ることができなくなった。

 109を核とした渋谷再開発計画は、渋谷の人の導線の変化はもとより、結果としてセンター街はチーマーをはじめとする「一般社会の常識」が通じなくなった若者に支配され、おっさんが歩くには気後れする街となってしまった。
 しかし昭和末期にはまだ渋谷には戦後の怪しさがにじみ出ていたし、今でもその(いい意味での)昭和の怪しさを体現することができる街であり続けている。「メトロポリス」は、他の東京の街に譲ればいい。ここはあくまで「悪所」であるべきなのだと思うのだが。

 そんな渋谷駅の周囲には、ワタシが東京に出た1984年時点でも、戦後を偲ばせる、時間が止まったような場所が点在していた。


【渋谷駅北西部 道玄坂と百軒店(ひゃっけんだな)】

喫茶ライオン 頃は1984年。東京に出たら是非行ってみたいと思っていたロック喫茶「ブラック・ホーク」は区画整理のため既になく、「恋文横丁」も109の出現により、標識のみになっていた
 百軒店に残った戦後昭和のメルクマール「名曲喫茶ライオン」には幾度か世話になった。どんな世話かって?営業活動の中で、昼食後の時間調整(平たく言えばサボり~!)に使っただけのことで、この店とは直接関わりがあったわけではない。
 この店ではレコードによるクラッシック・コンサートが日に幾度か催され、よくわからない曲の合間に、名曲にありつけることもしばしば。店のつくりが複雑で、中二階のようなところにワタシは席をとることが多かった。84年当時は浅田彰の書籍を手に読破しようとしていたはず。


構造と力


 さて、道玄坂と言えば、誰に誘われて行ったのか忘れたが、入り組んだ路地に位置するストリップ小屋へいったことが、ある。そのとき幕間のコントを、「コント赤信号」が務めていたことを思い出す。もうすでにテレビで売れ始めていたのだが、恩義があるからこの仕事を務めているということを、リーダー渡辺氏がテレビで話していた。仕事がない時に、本当に助けられたようだ。こういう恩義を感じる芸人が、信頼を得て、仕事が増えて行くのだろう。


【渋谷駅北東部 のんべい横丁】
のんべい横丁 今でも連綿として昭和の歴史を刻み続けている「のんべい横丁」。焼き鳥屋、一杯飲み屋は元来おっさん達が、肩の力を緩め「気が抜ける場」だった。会社にいれば様々なストレスに耐え、帰宅すれば女房からの雑な扱いと子供からの軽い扱いを受ける。おっさんはどこにも自分のプライベートが確保されるスペースがないのだ。だからこそこういう飲み屋は、職場と家庭の物理的あるいは心理的距離感の間で、同僚と共に、上司・女房の悪口や、「輝いていた」(と勝手に思う)昔の栄光なんかを、ぐだぐだ話してガス抜きができる場所だった。

おやじギャル しかし1989年、期せずして昭和から平成へと世の中が変わったその年、中尊寺ゆつこという漫画家が『スイート・スポット』という連載の中で、「おやじギャル」という「生態」を描いたことから、時のOL(当時の言い方です)が雪崩を打つかのように「おやじ化」していった。そして彼女の代表作ともいえる『お嬢だん』でそれが炸裂したのだった。

 おっさん達が女性の目のない場所で、ネクタイをゆるめ、ぐたぐたできる空間だったこの「のんべい横丁」にも、「おやじギャル」達が、大挙してやってくることになった。多くのおっさん達は、若い女性の目を気にし、なるべく醜態をさらさないように、というかエエかっこするようになった。ストレスだらけの会社と家庭から唯一解放される場所だったのに、結局ここも緊張する場所へと変化してしまった。

 いく人かの店主は、客層が変わったことを考慮し、店装やメニューを女性受けするものに変更した。すると、女性がこない店でグダグダしていたいおっさん達は、より女性がこない店へと河岸(かし)を替え、その店からは足が遠のく。一方のおやじギャルたちは、自分たちの知らないおっさんの世界を味わいたかったのに、店の仕様が変わってしまうと、ワクワク感がなくなる。加えて「おやじギャル」というブームも去ってしまった。結果、どのニーズにも満足させられない店となり、廃業していく店が相次いだ…ワタシの行きつけの店も2店舗だが、こういう店があった。

流し 堀江貴文氏がよく言うように、こんなグダグダしている奴は仕事もできないというもの言いであれば、その通りだろう。でも、50歳の声が聞こえてくると、自分の社内での着地点はどこか。それ以降の生き方はどうなるのかなど、おっさん達は分かってくるし、子供が巣立った後の女房との関係性という間近にやってくる現実を忘れるように安酒を呑んでグダグダしている時間も、必要なのではないかな。その空間を「おやじギャル」に取られちまうなんざ…

 そういえばこの横丁には、「流し」のオジサンがしばしば現れた。3曲500円だったかな。何回かリクエストをした覚えがある。「流し」と言えば、本当の流しではないのだが、『寺内貫太郎一家』で流しのお兄さん役で出演していた、この人「徳久広司」氏の「北へ帰ろう」がアタマの中で再生されてしまう。daily motionなので、ちゃんと視聴できるかどうかはわかりませんが、とりあえず貼っておきました。

【渋谷駅北部】
 以前書いたことですが、再び。ワタシが最も信用されていた雑誌に、当人の要望である世界的デザイナーの弟子を紹介した。その雑誌である芸術家の方と引き合わせた。しかし、ワタシが知らない間に、その先生の名前を使って、某デパートへ自分の作品群を勝手に売り込み、コーナーまで作らせた男がいた。

 もちろんその芸術家はカンカン。雑誌編集部も困惑。そして彼のしたことは、ワタシが懇意にしていたあるヘアーメイク・アーティストの方から聞いた。後になって雑誌や芸術家の当事者からは、何も言われなかったことが、背筋が凍りつくような思いがした。東京って、生き馬の目を抜くような場所って、本当なんだな…と思った一連の出来事。
 その彼がコーナーを作ったデパートは、この地区に、建物がふたつ並んでたっている。

 また名称は忘れたが、ニューウェイヴのアーティストが集い、定期的にパフォーマンスをするイベントが西武百貨店の道をひとつ挟んだビルで行われ、数か月の間そこへ通った。その時にホットドックプレス記者だったいとうせいこう氏と名刺交換をしている(ワタシは広告代理店社員)。また神奈川新聞本社壁面にペイントアートを展開したムラカミヤスヒロ氏、写真をグランドデザインとしてとらえる今井アレキサンドル氏などとも出会っている。
 そのきっかけは、ストリートで果物や野菜をナイフで砕き、破片を数色のビニールテープで再構築し、自らの手もその再構築の造形物に同化させるというパフォーマンスをするKatsu-Tujii氏との再会からだった。今や彼は経営コンサルタントだが、トンガっていた20代半ば、彼の周りには、とんでもないおもろい連中が集まっていた。

辻井勝


【渋谷駅南部】
 場所ははっきりとは覚えてないのだが、おそらく渋谷駅南側の桜丘あたりの裏路地に、ネパール料理店があった。昭和末当時、ネパール料理を出す店は珍しく、ここで出される「チャン」という、日本のどぶろくのような酒が秀逸だった。ただ、一杯あたりの単価が実に高かったという記憶は、ある。

チャン