「マミー・ブルー」ヒットと時代背景ー1971年 | TAKのブログ

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主として60・70年代のサブカルチャー備忘録、いけばななど…

 哀しげなメロディラインと、哀愁極まり絶叫寸前のしぼりだす声を聴かせてくれるリードボーカル。そしてバックコーラスは同じ言葉「オー・マミー・オーマミマミ・ブルー・オマミーブルー」を淡々と、感情を押し殺して歌い続ける。このコントラストが、またもの哀しさをかもし出している。

 1971年、日本でもヒットしたポップ・トップスの「マミー・ブルー」。歌詞を大づかみにすると…

 21歳の時家を出た僕、ママは忘れてしまってるでしょう。ママに会いたいと家に戻って来てみれば、そこは荒れ果ててしまって、誰の姿も見えない。僕はどこにも行く場所がなくなった。僕には未来なんかない。ああ…ママ…ママ…

 自分を育んだものに裏切られ、彷徨し、挫折、そして愛されてはいなかったはずの母なる存在に立ち戻ろうとしても、そこには絶望と無力感、虚無だけが存在する世界が果てしなく広がり、後ろにも前にも行けない。信じようとしたが見捨てられ、それでも希求しようとした存在―ママ―へのとどかぬ思いを吐露した言葉が連なる…

 このヒットからさかのぼった3年前の1968年、この年は日本のみならず、先進国資本主義社会の転換期で、学生運動や労働運動、とりわけスチューデント・パワーの炸裂がピークを迎えた年だった。たとえば米国コロンビア大学において、大学当局に対する学生の抗議運動と挫折を描いた「いちご白書」、パリ学生街「カルチェ・ラタン占拠事件」、そして日本では学生運動のピークとして象徴的な東大安田講堂事件(翌1969年1月)に同時代性を見出すことができよう。

 その前年に彼らはデビュー、翌1968年に最大ヒットとなる「涙のカノン」(Oh Lord Why Lord )―パッヘルベルのカノンをアレンジし、リリースした。

 しかしその頃の先進(資本主義)国では、憧れたはずの社会主義も、ソヴィエトや中国の化けの皮がはがれはじめ、1970年代に入ると、社会主義を希求するスチューデント・パワーは急速にクールダウンしていった。そして、怒りに裏打ちされた主張を、社会主義・反戦という旗を掲げ、「外向きに」メッセージを吐露し続ける手段たるフォークソングだったが、キャロル・キングが1971年にリリースした「つづれおり」に象徴されるように、自己の身の回りを詩で綴るかのごとく、「内向きの自分」を表現する手段へと潮目が変わった。

 同1971年、日本ではよしだたくろうのメジャー・デビュー「結婚しようよ」が、身近なモノ・コトを取り上げる契機となり、その流れで「四畳半フォーク」と呼ばれた(たとえばあがた森魚の「赤色エレジー」)、「閉じた世界でのキミとボク」を表現する場へと転化し始めた。その中でも遠藤賢司は同年「カレーライス」で、キミとボクとネコの「閉じた世界」を描いたが、学生運動が終焉した後、右側から日本を憂う三島由紀夫が自決を図ったニュースを取り込んだものの、「誰かがお腹を切っちゃったんだって、痛かったろうにねぇ~、カレーライス」と、全く自己に引きつけようとせず、どこか別の世界で起こったニュースとして処理している。

 とまれ、1960年代後半は「怒り」と「動」の時代だったが、そのムーブメントが権力によって鎮圧され、それを担った若者が、世界は変わりようがないと諦観し、無力・虚無感を個々に感じとり、そして見えない糸で結びついたこの挫折感を共鳴したかのように、無情、無力感あるいは絶望といったネガティブな感覚が、西欧・米国・日本など先進国の間で拡散していった。

 このような先進国の社会背景が基盤となり、そして出口がない孤独を歌ったこの楽曲が、(先進国社会で)世情と共鳴し、大ヒットへとつながったのだろう。

【この楽曲のメモ】
○スペインのマドリッドで結成された7人組で、リード・ヴォーカルは西インド諸島出身。
○作曲者がシャンソンの名曲『パリの空の下』を作曲したユベール・ジロー
○競作となった
 ・フランス:ニコレッタ(フランス語)
 ・リッキー・シェーン
 ※かのポール・モーリアも競作した
 ※ジュリーもライブで歌ったそうだ。
○彼らの最もヒットした曲ではない
 ・最大ヒット曲は、1968年の「涙のカノン」(日本でもヒット)
 ・以降泣かず飛ばずの状態が続き、この楽曲でカムバック
○よく売れた(共鳴した)地域
 ・西欧、日本、カナダ(米国はチャート50位前後)


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※この記事は昨年12月に書いたが、事情で「お蔵入り」となっていたもの。今回新たに加筆・修正し、アップしました。