物部氏は彼を饒速日命として祀り、他の一族は武内宿禰として祀っていたことになる。

 

物部氏、蘇我氏と言えば、壬申の乱前後。

そのすぐ後に記紀は編纂されている。

そこで彼、天照は変えられたのではないのか。

 

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★目次

☆1 高良神を祖神とする者たち

☆2 変えられた天照*高良神と宇佐の神

☆3 磐井の乱から聖武天皇まで

 

 

  高良神を祖神とする者たち

 

蘇我氏、紀氏、平群氏などが祖神とする武内宿禰と、物部氏の祖神の饒速日命は同神であった。

 

彼は筑後国一之宮の高良大社の神である。

よって、彼らは元は同じ一族であったことになる。

 

武内宿禰を始祖(=祖神)とする一族は、他に巨勢氏、葛城氏の名がある。

 

高良大社

 

それらの一族が並ぶのは壬申の乱の前後であった。

ではそこに鍵があるのだ。

 

高良神を祀る高良大社が伝える書に、ヒントとなるものがあった。

 

  変えられた天照*高良神と宇佐の神

 

彼は、筑後国一ノ宮の高良大社の神。

「高良玉垂宮神秘書」にはこのようにある。

 

高良大社は日本第二の御社。

仁徳天皇の時、高良大社は九州の宗廟であった。

聖武天皇の時に宇佐神宮が創建され、宗廟を譲った。 

 

 

宗廟とは、そのままの意味だと皇室の祖先を祀る宮。

それが高良大社から宇佐神宮に宗廟が移ったのは、聖武天皇の時とある。(上の記事に詳細)

 

 

これは皇室の祖神である天照が、高良大社の神から、宇佐神宮の神へと変えられたことを意味していた。

 

宇佐神宮の姫神は、宗像神(市杵島姫命)。

他に神功皇后と応神天皇が祭神。

 

市杵島姫命は女神の天照であり、御炊屋姫。

男天照、饒速日命の后である。

 

 

彼は高良神であり、その后が「神功皇后」。

応神天皇は高良神自身。

 

そこに在るのは、二柱の天照になる。

 

天照が、男神から女神へ。

彼は天照では無くなった。

 

非常に重大なことではないか。

 

 

移されたのが聖武天皇の御代。

それより前のどこかまでは、彼は天照であったのだ。

 

記紀が創られ始めたのは、天武天皇の御代。

その前には、件の壬申の乱がある。

では、その辺りが起因しているのではないか。

 

まずは、その前後の時系列を並べてみよう。

 

 

  磐井の乱から聖武天皇まで

 

 高良大社 創建368年

 

               528年磐井の乱(筑紫)

欽明天皇 在位539年~ 仏教の受容を巡り、物部と蘇我対立

敏達天皇 在位572年~ 蘇我馬子大臣に

用明天皇 585年在位~(聖徳太子の父)

     587年崩御 

     物部守屋が穴穂部皇子を立てようとする

     守屋と穴穂部が逆(さかう)を殺害

     馬子、穴穂部を殺害

     蘇我馬子、物部守屋を滅ぼす

崇峻天皇 在位587年~592年 馬子が殺害

推古天皇 在位593年~628年

     馬子が宗我坐宗我都比古神社を創建か      

 聖徳太子 死亡622年

 蘇我馬子 死亡626年

舒明天皇

皇極天皇

孝徳天皇

齋明天皇 在位655年~661年

 大化の改新 645年

  乙巳の変 蘇我入鹿 暗殺 

         ↑ 暗殺 中大兄皇子と中臣鎌足

天智天皇 在位668年~(中大兄皇子)   

      ↓子

弘文天皇 在位671年~672年 (大友皇子)    

  ↑ 壬申の乱 672年で滅ぼす

天武天皇 在位673年(大海人皇子)

 天智天皇が兄

   天武天皇が681年に「帝紀」「上古諸事」

   の編纂を命令。(記紀編纂始め)

持統天皇 在位690年~(奈良県高市郡明日香村)

     

文武天皇 在位697年~

元明天皇 在位707年~

 

 古事記 完成712年

 日本書記 完成720年


元正天皇 在位715年~

  香椎宮 創建723年

聖武天皇 在位724年~ 

  宇佐神宮 創建725年 宗廟を高良大社から宇佐神宮へ譲った。

 

 

 

( つづく )

 

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