仲哀天皇の崩御の状況が、書により違いがある。
特に「日本書紀」と「古事記」の違いは著しい。
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★目次
☆1 状況の違い
☆2 矛盾の理由
状況の違い
仲哀天皇の崩御の状況には、伝承により違いがある。
その詳細な話のどれかは創作。
または、その全てがそうなのだ。
★1「日本書記」
神功皇后での神がかりで、仲哀天皇が神を疑う。(9月5日)
☆香椎宮、琴の場面の記載はない。皇后の受胎は神から告げられる。
→熊襲征伐で負ける。
→香椎宮で崩御(翌年、2月6日。約5か月後)
★2「古事記」
*香椎宮での神がかりで、仲哀天皇神が神を疑う。
→その場で琴を弾く手を止めて、崩御。
日本書紀では、神がかりの後に熊襲征伐し、香椎宮で崩御するまで約5か月間。
しかし、古事記では、その場で崩御。
この違いは大きい。
両書で打ち消し合っている。
これに加え、二つの違う伝承がある神社があった。
★福岡の御勢大霊石神社
★3 仲哀天皇は香椎宮で崩御
神功皇后が石を形代として三韓征伐に行く。
戻ってから、宮を建て石を祀る。
衣と剣を納めた。
仲哀天皇殯葬傳説地であり、この地に仲哀天皇を埋葬したとの伝承
➡三韓のみで、熊襲の記述がない。
石は元々この地にあったものか分からない。
香椎宮で崩御したのなら、この地で殯する必要が無い。
その距離36キロ。
★4 もう一つ、別の伝承。
熊襲征伐の際、敵の矢に討たれる。
この地で殯(もがり・仮埋葬)をする。
三韓と戦い、その後に香椎宮へ御棺を移動。
凱旋後、形代とした石をこの地に祀る。
➡この地で殯をした意味が通る。
また、神功皇后が石を形代(形見のお守り)と三韓征伐に持って行き、この地に祀った理由になる。
「日本書紀」の記述に沿っている。
しかし「古事記」では、神がかりの時に崩御している。
同じ社なのに、二つのまったく違う状況が伝えられている。
これは、どちらの説も採り、尚且つ、この地を「殯の地」にしたかったからではないのかと推測される。
★5 香椎宮
これに加え、香椎宮にはその名の語源となった話がある。
古宮の地で棺桶を椎の木に立て掛け、その前で会議をしたという。
ここにある案内板には、仲哀天皇の崩御は9年2月6日とある。
よって、☆1の日本書紀の記述を採っている。
それは、御勢大霊石神社の☆4の伝承に当たる。
しかし、その地で崩御して殯し、三韓征伐をした後に香椎宮に御棺を運んでいた。
ならば、香椎宮には何もかも終わった後に運んだことなる。
その前で会議をする必要もない。
また、当時の棺桶は丸かったのではという説がある。
大体、棺桶を木に立て掛けるなど不安定な事をするだろうか?(ご遺体が入っていたかどうかは書かれていないが、その前で会議をしていたのなら、在りうる設定)
それぞれ、どこかに矛盾がある。
特に福岡の伝承では、記紀に話を繋げようとする節がみえる。
それ故に、またどこかで矛盾が起こる。
事実ではないからだ。
矛盾の理由
そもそも。
”熊襲が反乱を起こした”
それから神功皇后は、豊浦に移動していた。
日本書紀では、そこで5年も過ごし、筑紫に移動して仲哀天皇と合流している。
征伐をするならば、力をつける前に、被害が広がる前に、期を見て即座に行動を起こすのがセオリーだろう。
5年はいくら何でものんびり過ぎる。
合流した後に、香椎宮での神がかり。
では、その前に彼女抜きで戦っていたことも考えられる。
しかし、角賀からわざわざ呼び出したのに、5年も合流しなかったとは腑に落ちない。
古事記では、香椎宮での神がかりの時に、崩御。
その後、三韓征伐に行ってる。
そこには熊襲征伐の表記はまったくない。
筑紫に来たのは、それが目的であったのに、だ。
書いていないだけか。
いや。触れていないのだ。
書けば書くほど、矛盾ができるから。
古事記は、日本書紀での矛盾点をなるべく無くし、物語として成立させようとしている。
だから、彼女の「詳細な妊娠期間」にも触れていない。
熊襲征伐の状況も書かない。
詳細だから真実とは限らないのだ。
これは記紀や伝承、全般に言えることになる。
( つづく )
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小分けなので分かりやすいかもです
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