神功皇后が大和へ戻る前に訪れた。

御子の誉田皇子(応神天皇)が初めて立った地となる。

 

生立(おいたつ)神社
福岡県京都(みやこ)郡みやこ町
 

 
ご祭神、応神天皇、神功皇后、比賣大神。

 
福岡県神社誌より*概要
 
古老口伝にいう。息長足姫命、筑紫蚊田にて誉田皇子を産んだ。
翌春大和へ行ける時、異腹の二皇子が逆意を企てると聞いた。
穴門は早戸の狭門であるので、何か謀(はかりごと)があるかもしれないとして、豊国に出てここに来て、航路で行こうとされた。
 
時に、母命の御膝とこの石に添いて皇子立たせたまう。
母命喜んで、生立也と言われる。
 
これが社号の起源であり、後に三柱を鎮座した。
 
 

案内板
 
凱旋の途中に立ち寄り、軍船に貼り付いて皇后軍を守った蜷貝(にながい)を自らこの楠に放し、木の守り神とした。
 
蜷にまつわる彼女伝承は、林田の美奈宜神社にもあった。
「神功皇后は、安曇磯良神(あづみいそらしん)から賜った潮干珠・潮満珠の霊力により蜷貝の一夜城を作り、羽白熊鷲を征伐した。」
 
 蜷貝は彼女を助力した者の象徴でもある。
共通の神を示唆するものにもなる。
 
 

  伝承の真相

福岡県神社誌には、「日本書紀」に無かった記述があった。
 
「応神天皇を産んだ翌年に、大和へ戻った。
穴門は狭いので、はかりごとがあるかもしれないと、豊国から船で行こうとしていた」
 
 
これらの記述、当時この地にいる者だけでは到底、知り得ないことである。
 
彼女達はここを通っただけであって、その後、大和に着けたかどうかは土地の人は知りようがない。
 
その「真偽」は別として、後の世に「誰かに告げられ」伝承としたことは確かになる。
 
 
また、境内の蜷貝についての案内板には、神功皇后が凱旋の途中でここに寄ったとあった。
三韓征伐から戻ったならば、直接、博多湾に向かえば早い。
ここはそこから関門海峡を通って、さらに南下した所。
 
まして彼女は産み月を遅らせて、三韓へと行っている。
寄り道してる暇はないはず。
 
 
しかし、この地に彼女が訪れたことは真実。
御子が立ったという事象が降って湧いてきて、土地の伝承になるとは考えにくい。
(中には勧請して、伝承が移った場合もあるが)
 
では、何が真実で何がそうでは無いのか。
 
 
例えば、ここの場合、こうとも考えられる。
*神功皇后が来て、この地で御子が立ったことは真実。
*彼女の伝承にあやかり、社に付いていた蜷貝を守り神とした。
(彼女に助力した者の象徴でもある=同神がか関わる)
*その他のことは、神話(記紀)に添った物語にする為に繋げた。
 
おそらく、それが真実だ。
 
こうして伝承は創り上げられていく。
それは、彼らと土地を繋げたいと思うからこそ。
 
神を想ってのことになる。
 
 
 

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古代や神のこと、少しずつつぶやきます。

小分けなので分かりやすいかもです爆  笑

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