続きです。
結論から言うと、彼女は身重では無かった。
その時、応神天皇は宿ってなかったのだ。
身重での三韓征伐ばかり注目されるが、福岡の山々、脊振を登り、水路の裂田溝(さくたのみぞ)を半年で造ることこそ、現実的ではない。
<脊振への登山>
彼女は脊振へ登った後、那珂川の現人神社へ向かっている。
(那珂川のほぼ現人神社から見た脊振、
ほぼ真ん中の奥の高い山!
現人神社は、画面下の右端)
神社から背振まで往復するならば約48キロ。
総標高2100m越え。(実際に歩いた。後にUPします)
富士山が5合目から登って、標高差1300m。
*下のスタート地点から北(地図は上)の現人神社まで+往復10キロ。
(地図はYAMAP)
*上のは登りは山中、下りは車道を歩いてる。
昔は肥前筑前街道があり、坂本峠から南の佐賀側に行けたとのこと。
そこから、脊振に上がったか。
西の山中にある街道を行ったか(今回の西の軌跡)。
距離は、これと大差ないか、長いかになる。
脊振は、北の福岡側から登る方がきつい山。
早良区方面から来ると、椎原、車谷コースになり、ガレ場、急斜面が続く。
どちらにしても、身重では無理なことが分かる。
<裂田溝>
彼女は脊振の後、那珂川で裂田溝(さくたのうなで)を土地の人と共に造っている。
香椎宮での神がかりの時に下りた神が、ここにおられたからだ。☆1
それが現人神社の住吉神。
水路は、かの神の神田に水を引く為。
ならば川から引き、川へと水を通すはず。
途中で投げ出さないだろう。
その距離、5.6キロ。
那珂川市の(探訪なかがわ「裂田溝」)
2014年、広報なかがわに連載されていた記事。
読むのが楽しみだった。
8,27など神功皇后が度々登場する。
この時代、この工事がすぐに終わるとは考えられない。
日本書紀によると、6か月間。
今の時代でも難しいのではないか。
*3月26日~10月3日まで(この間、6か月)
→浮嶽*三韓征伐の勝利を願う
→脊振山に登る
→那珂川(裂田溝を造る*現人神社の神田に水を引く為)
その間に浮嶽にも登ってるので、期間はもっと短いはず。
< 伝承の違い >
☆1 には「香椎宮の神がかりの時に下りた神」とあった。
日本書紀などでは、三韓征伐の前に造っている。
しかし、現人神社の伝承には「三韓征伐に助力をした神」とある。
行く前に造るよりも、理にかなっている。
助力してくれたからこそ、感謝して神田を造ったことになるからだ。
ならば、三韓征伐の後になり、子を産んでからになるので腑に落ちる。
しかし、宇美八幡宮の場所で産んでから、大和へと出発するまで、日本書紀によると2ヶ月。
もっと現実的ではない。
だから、那珂川では「神功皇后が造った」ことを否定する声が多い。
ここには彼女の息遣いが感じられるような伝承がある。
現人神社は住吉の元宮。
住吉は、彼女が共に行動した高良の神。
「イザナギ」から生まれた神はすべて同神。
住吉神はすべての神でもある。
故に、本当の神話の舞台。
彼女が来なかったはずはない。
ここで暮らしていたのなら、それをしたはず。
では、それらの伝承は何を告げるのか。
( つづく )
*記事内の考察や写真、イラストなどの無断使用はご遠慮ください。
今更ながら始めました。
古代や神のこと、少しずつつぶやきます。
小分けなので分かりやすいかもです
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