初めに。
日本神話や記紀は史実でしょうか?(以下、記紀は略)
豊玉姫はサメに姿を変えて、海へと帰った。
では、その子、ウガヤフキアエズはサメの子。
イザナミ神が亡くなり、根の国へ。
変わり果てた姿を見てしまったイザナギ神が、黄泉醜女から逃げ、黄泉との境に大岩を立てた。
イザナギ神は禊をし、左目から天照、右目から月読神、鼻からスサノオ神が生まれた。
その時に住吉三神や様々な神も生まれた。
等々。
サメへと姿を変えた。
根の国(黄泉)へ行った。
男神から三貴神が生まれた。
他にも現実的ではない話が描かれいる。
それ、本当?
日本神話の親子関係を鵜呑みにすることは、それらが史実だと認めていることにもなる。
あれはすべて創作?
では、神も偽りになる。
現実的ではないことだけ、何かの比喩?
それとも、神様の話だから何でもOK?
それこそ現実的ではない。
否定する材料として神の親等を上げるのは、それらの非現実的な物語を鵜呑みにしているこになる。
それなのに何故か、この国の多くの人は、日本神話をそのまま有り難く受け取り、親子関係まで信じ込んでいる。
それこそ、非現実的です。
宗像三神は、天照の勾玉をかみ砕いた、スサノオ命の口から生まれている。
それ、現実?
***
神社などに伝わる伝承を紐解き、繋げると、日本神話とはまったく違うものに行きつく。
饒速日命が天照であり、高良神、住吉神、ほか。
御炊屋姫が女神・天照であり、卑弥呼、豊受、宗像神、神功皇后 ほか。
すべての神が彼らに集約される。
(後の時代の人物で神として祀られたものを除く)
すべて彼らなのだから、神話は「彼ら」の物語を、名前やシチュエーションを変えて繰り返し語っていたもの。
「神社に伝わるものは、物部氏などの陰謀により、彼らの都合のいいようにすべて替えられたものであり、(それを支持することは)墨説を語っている」と言われた方がおられた。
では、神に仕える方々は数千年の間、神をたばかっていることになる。
高良大社の神官さんは、高良神は住吉神であり、神功皇后と時を共にしていたことを教えくださった。
奈良の聖林寺では、大神神社の神が饒速日命であることを。
それらは、神話とは違う物語。
一般論では、住吉神は神話上での神であり、神功皇后とは文字通り住む世界が違う。
しかし、高良大社の伝承(高良玉垂宮神秘書)にはこのようなくだりがあった。
「高良神は物部姓。違えるならば当山滅す」
神を変えてしまえば、神の怒りに触れると暗に告げている。
さらに、神官さんの言われる通り、神功皇后と共に在り夫婦であった。
高良の地は古代、物部氏の領地であるので、祀られるものは祖神、饒速日命。
神秘書の言葉はそれを裏付けるもの。
では、
高良神は饒速日命であり、神功皇后と共に生きた。
これが真実。
違うのは後に名づけられた名前。
彼女は誰?
そうしてたどり着いたのが饒速日命の后の御炊屋姫。
彼女は奈良で弁財天=市杵島姫命とされる宗像神であった。
それは筑紫の神であるので、こちらに来てからの物語が「神功皇后」。
住吉神(高良神・饒速日)と行動を共にしているのだから。
女神・天照の名は、撞賢木厳御霊天疎向津姫。
(つきさかき いつのみたま あまさかる むかつひめ)
厳御霊は、厳島神社の神を意味する市杵島姫命(宗像神)。
上の神話のくだり「天照の勾玉から生まれた宗像三神」は、二柱が同神であることを示唆しているもの。
また、スサノオ神と天照神の「品物の交換」は、神が入れ替わった事を意味する。
天照が、男神から女神へ。
神話を神社の伝承と照らし合わせると、真実が見えてくるのだ。
神社の伝承があって、初めて真実へと繋がる。
何が本当か。
確かな真実として、今の世でも神は”在る”。
その証の一例として、前回の「大原山神社と大神山神社」をUPした。
小さな社の「勧請」一つにしても、神が関わっている。
その神を違えることが人にはできるものか。
神社には、神を祀ってきた数多の人がいる。
二千年近く紡がれた神への祈り。
神に仕えるものは、愛にも等しく神を想う。
彼らは気の遠くなるような時を紡いで、神に奉仕してきた方々。
そこに嘘、偽りは一つもないはず。
神が”在る”のならば、偽りの祈りは許されるはずがない。
日本神話は何を言わんとしているのか。
それはその目で見て、足で歩き、感じて、祈り、神に触れたいと熱望するものこそ、辿りつけるのかもしれない。
全力で愛されていると伝わるからこそ、神とのご縁が結ばれる。
そこに嘘、偽りはあり得ない。
だから、高良大社の神官さんも聖林寺の方も、毅然と語ることができたのだ。
彼女を追っている方、神功皇后の登ったお山に登ったことありますか?
浮嶽なんぞ、一度でも登ると身重では無理とすぐに分かる。
(ここらでは有名な急登で、その上砂地で滑る!ロープを掴んでも、滑って宙に浮いて尻もちつくくらい)
宝満山も、雷山も、大根地山も、身重では無理!
では、彼女は身重ではなかったのだ。
神話は事実を元にした話だが、嘘もある。
皇記の始まりを紀元前660年としてしまったことも起因している。
魏志倭人伝の卑弥呼の時代の様子を見ても、そんな前から続いてはいないと分かるはず。
彼らの前(神功皇后の直前)はすべて創作か、間に彼らの話を入れ込んだか。
何が本当か。
それは自分の心が良く知っているはず。
神の心根に触れたい。
それは人のささやかな願いなのだから。
どうか、真実を見つけてください。
そうすればもっと神に近づけます。
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