那珂川市にある神功皇后の伝承地
安徳台。
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(グーグルマップより)
下から見るとこんもりとした山のようだが、航空写真で見るとこの台地の上は平らなのが分かる。
現在はオリーブ畑などが広がって、台地の周りを歩くと一時間程かかる。
周りはがけのようになっていて、天然の要害。
上に上がれる場所は二箇所しかなく、以前は地権者、耕作者以外立ち入り禁止だったが、最近は展望台もでき、行けるように。(田畑を荒らさないこと)
昨年、晴れて国指定遺跡になった。
下の写真は裂田神社の側から。
台地の高さは30メートル。
ここは、同じく那珂川市にある現人神社の存在と共に知った。
現人神社は、全国の住吉神社の元宮。
「その神」の神田に水を引くために、神功皇后が指揮を執り築いたと言われる「裂田溝(さくたのうなで)」。
この丘の側に差し掛かる時、大岩が塞がった。
皇后が竹内宿禰に命じて鏡と剣を奉らせ、神に祈ると雷がこの岩を裂き、水路を築くことが出来た。
その時に「雷がとどろいた」ので、この丘の名が「迹驚岡(とどろきのおか)」。
*
現在の「安徳台」の名は、安徳天皇が壇ノ浦の合戦の前に2ヶ月の間滞在した仮宮が、台地の上にあったから。
この一帯には、その折りの名残の地名があちらこちらに残っている。
安徳天皇をお迎えした「御迎(おむかえ)」
敵にいないと嘘をつき追い返したという「嘘谷(うそたに)」
敵が、安徳天皇を探しきれずに一本の松を植えたという「老松(おいまつ)」
安徳台の頂上には入水した安徳天皇をしのび、祀った小さな祠「安徳宮」がある。
*
今でも土地の人は、この台地を「御所が原」「上の原」と呼んでいる。
古来より、幾度となく宮があったのだ。
古くは弥生時代中期。
この場所に遺跡が見つかったそう。
その説明文。
弥生時代中期の酋長級の墓が見つかっている。
奴国の大集落があった。
まだほんの一部しか発掘されてないので、奴の国の主要地はこちらではないかとも言われている。
那珂川というのは、儺(な)の川、奴(な)の川から由来する。
那珂川には「岩戸」という地名もある。
「裂田の溝」の那珂川からの取水口の側にある「伏見神社」では、今も7月になると「岩戸神楽」が行われる。
「なぜ、ここに岩戸?」と、初めて聞いた時は思ったのだが。
調べれば調べるほど、魅せてくれた。
「岩戸」の戸が飛んできたと言われている場所もあるのだ。
安徳台は「上の原」
ここに住む方々は古来からそう呼び、大切にしてきた。
宮を建てる必要のない場所なのかもしれない。
那珂川はいまだに祭りがさかんで
神と人との距離が近い
古くからいる人が新しい人を受け入れ
人と人の距離が近い
人と神が共に生き、皆が笑い、集う場所
住吉の神の元、穏やかに時が流れている。
泣きたいほど大切な私の居場所
「人となった神」は、その後どうしたのでしょう。
彼はその後も「人であった」のだ。
彼女と共に。
安徳台を北から。
画面中ほどにある、台地が安徳台。
< 光の太柱 >
それで思い当たった。
「天の太柱」
その言葉を神話で見ている。
< 底津岩根 >
高天原のこと。
後の記事
この後、この地の図書館で、郷土史研究家の方の本に出合う。
パズルのピースがはまるかのように、繋がっていった。
天孫降臨の地。
それは神と後にされた者たちが暮らした場所だ。
彼らは全ての神であった。
全ての神住吉の元宮がある所。
それが天孫降臨の地なのだ。