うんこの森で美味しいコーヒーを

うんこの森で美味しいコーヒーを

うんことコーヒーのブログ。

Amebaでブログを始めよう!
photo:01


ある日の朝、私の故郷の伝統工芸品が寒そうに壁に寄り掛かっていた。
久しぶりの対面で、一瞬ちょっとビックリしたのだけれども、まぁ買う人がいれば捨てる人もいますよね、と少し寂しい気持ちになりながらも、こけしさんがこれ迄与えてきたであろう、喜びの数々を思い、私はこけしさんに別れを告げた。
小学校の校庭で雨風に吹かれて朽ちたトーテムポールをなぜか思い出した。
はじめてiPhoneから記事を書く。

今日飲んだコーヒーはスターバックスのコロンビア。軽い香りがして、あまりしつこくないので、朝一に飲むと美味しい一杯。

私は結構濃いめのコーヒーが好きで、フレンチプレスを使うのだけれども、スタバのコーヒー豆はローストが濃いので、口に合う。

うんこの森で飲むのなら、どんなコーヒーが合うだろう。あんまり爽やかなコーヒーだとうんこに負けそう。

なにせ森。うんこは半固形かつ半液体という奇妙な存在なので、時としてそれは木になり、時としてそれは湖にもなるのである。

うんこの森はそれはそれはデリケートで、環境汚染に敏感なのだ。

うんこの森がビチョビチョだったら、それは地球の危機である。

 雪舟 慧可断臂図
 雪舟等楊(1420-1506)は室町時代の画僧で、後に長谷川等伯(1539-1610)や狩野探幽(1602-1674)が学んだ日本美術史上の巨人である。
雪舟は「画聖」と称されるほどの人物で、日本史上の国宝最多絵師だが、これは江戸時代に画壇を支配していた狩野派などによる権威付けに利用され祭り上げられた結果で、もちろん水墨画家としての腕は最高なのだけれども、正当な評価というのを一般には受けていない。

こういったことは美術史上ではたまにあることで、第二次大戦後のフランスにおいて英雄化されたピカソ、現代のブームによってもてはやされているダ・ヴィンチなどもそうだ。これは個人の持つ芸術精神やアイデンティティを認めないようなもので、すごいすごいと言いながら、無意識に馬鹿にしているようなものだと私は思っている。
尊敬を持って芸術家の精神を見なければならない。

 じゃあ雪舟はどんな人物かというと、お堅いお坊さんというよりかは、おちゃらけで好き勝手にやるようなやつだった。それは雪舟の作品に如実に表れていて、それまでの日本における水墨画のルールを無視しまくって、好き勝手に表現している。

トップ画像の『慧可断臂図』は達磨に弟子入りしようとして断られた中国の禅僧慧可が、絶対に諦めぬという決意で手首を切り落としたところである。左下のおっちゃんが持っているのが慧可の腕である。

この作品は見てまず誰もが違和感を持つように、慧可のマーカーで描かれたような姿が特徴的で、これは神聖さのフォルムを確立するために、あえて単純化した、つまり抽象主義的な技巧である。モディリアーニ(1884-1920)やマティス(1869-1954)を見ればその意図がよくわかるだろう。
modigliani_cariatidea00.jpg

他にも雪舟は、本来前景を緻密に濃き、遠景をぼかすという水墨画のルールを無視して、好きなようやりたいように、行き当たりばったりで描いている。

 こういった逸脱した描き方をしたのは勿論理由があって、それは当時の中国、明に渡って本場の水墨画に触れたこと。そういう画家は他にはいない。(このことを齢70、80になっても雪舟は自慢しまくっていた。)

明では日本の画壇より数段上をいっていて、荒々しい絵を大画面に描く、というスタイルが流行っていた。これに触発された雪舟は旧来の手法にこだわらず、独自の考え、新しい手法で描いていた。ざっくばらんにいえば、好き勝手に、しかし前衛芸術として描いていたということだ。

 そういう前衛芸術の上に建てられたのが狩野派であり琳派であって、日本美術という一つの形が、私たちの国民精神を表す学問美術というのができあがるのである。
それは当たり前と言えば、当たり前のことだ。今の時代の前衛派もいつかは旧時代の表現方法といわれるだろう。
しかし、美術を鑑賞する上で重要なのは、その当時の視線で見るということ。これを我々はついつい忘れてしまう。大事なことであるのにもかかわらず。

ルネサンスを見るならばヒューマニズムを、バロックなら宗教改革、印象派はサロン、シュールレアリスムやDADAならば世界大戦との関係を。それらを知った時に、はじめて芸術の意味を理解し、美しさが分かるというものだ。美術史というものの存在意義というのは、そういう点にあるように思われる。

そして、それらは概ねが各時代の前衛であったのだ。シュールレアリスムだけではない。現代美術だけではないのだ。
過去の芸術を過去のものとして見るのをやめること。それが普遍的な美を見つめる上では必要だ。

dali2.jpg


うんこの森で美味しいコーヒーを

ある土地がある土地よりも求心力がある、というのはどういうことなのだろう。最近、それがすごく不思議だ。
 
ある教会が建てられる。
人が集まる。
だけど、その魅力しているものは建物だけでなく「土地」が大きく関係している。

 魅力される教会があるというのは、そこが何らかの聖なる地であったのだろう。そこで更に聖なる行為が続けられるから、ノートルダムのような有名な教会、というものができあがる。
最初から、ここには何か人を集めるような特別な力が備わっているのだろうか。

 日本の神社仏閣も、そんな特別な場所に建てられるもので、それはもともと古代人が敬いそして恐れてきた山や川、森など超自然的な神秘に満ちたもので、そこになんらかの目印を付けた。
木の棒を立てたり、ストーンヘンジのように、ただ石を積み重ねたり。

それが人間社会の発展と人間精神の要求によって建物になっていく。
ただの石が神殿となり、破壊されたり風化した場合はその上からまた新しい建物ができる。
お城やピラミッドの下から遺跡が出てくるというのはそういうことだ。

 そうやって成長(?)し発展していく、そんな場所では祈りや事件などが繰り広げられて社会的な情報は増えていく。
一方で、その場所はもともとが超自然的な土地だったのに、キリスト教や仏教などと関連して宗教的な土地になる。
時代が進めば宗教と区別された美の対象にもなるし、単純に街の中心地になって市場が開かれたり人と人との交流の場所にもなる。
そこまでいくと宗教的な聖地としての考えもけっこう薄くなってきて、若い外国のお兄ちゃんが、へぇ昔ここで有名なお坊さんがそんな事件を起こしたんだ、なんて感じで観光しに来たりする。

 それでも人は集まり続ける。巡り巡る社会や価値観に応えて建物は建てられ意味が付加されていくが、そのベースとなっている土地はずっと同じだ。そこには常に人がいて、忘れられたとしても、またそこには人が戻ってくる。バベルの塔だって、見つかればまた人はそこに行くしソドムとゴモラにも世界中から人が集まるだろう。

磁場とか風水とか、そういうことじゃなくて、やっぱり土地というものには何かがある。人が集まるところには地理的な意味合い以外に、特別なパワーがある。いったい、それは何なのだろう。

あんまり髭が濃くないので、だいたい髭は剃らずにピンセットで抜く事が多い。
初めはもちろん痛いのだけれども、それがなぜか気持ちいい。
自分の脇の汗のにおいに、うわーくさい、とか思いつつ何度もにおいを嗅いでしまうあの感じ。爪の垢を嗅ぎたくもないのに、捨てる前に一度嗅いで、くっさぁと思う自分。
くさいのは、わかっていただろうに。それでもやめられないのは、もう性である。

 サキュバスがいたら是非襲われてみたい私の様な人間は、自分を痛めつけることが好きで好きでたまらなく、髭だけには飽き足らずより刺激の強い鼻毛さんまで抜いてしまう。
長く太い鼻毛が抜けるともう大興奮。何分もその異様な形の、なんでこんなに長いんだろうという鼻毛さんをまじまじと見つめる。
なんだか、この文章を初めてみた人は、私をとてつもない変態に想像してしまうかもしれない。私は爽やか青年ボーイです。

 長い長い鼻毛ちゃん。或いは、毛根に皮脂の詰まった、それを一緒に持ってきたお髭さん。そういったものを、宝物として瓶の中とかに入れておきたい。しっかり大事に取っておいて、吉良吉影のように、何年も保管して、鼻毛さんの最長記録と平均をとりたい。
 鼻毛さんが早く伸びる薬はないだろうか。出来れば年内に10センチ程の鼻毛を育て上げたい。
 もう日付も変わっているのに、まだサンタが現れない。オートロックの家だからだろうか。

そんな冗談はさておき、今頃いい子の家ではパパがサンタさんに変身している。子供がぶら下げた靴下の中に、仮面ライダーの変身グッズとか、超合金の戦隊ものロボとかを無理やり押し込んでいる。
そういう家庭は今でも一般的なのだろうか。そういう家庭が欲しい。早く欲しい。

サンタさんが来てくれて、何かちょっとした物をくれるというのであれば、私は何が欲しいだろう。
今一番欲しいのはお米だ。ビール一ケースとか、缶詰の詰め合わせとかも結構いい。もはやお歳暮である。

 こういう歳になってくると、子供のように純粋な気持ちで何かを欲したい、という感情が湧かなくなる。そんなうまい話がある筈がない。これを受け取ったら絶対に何かマイナスが生じたり、自分にその分の見返りを求める筈だとか、物凄く腹黒い、もう全然ピュアになんかなれそうにない考えが先に浮かんでしまう。どうしてこんな風に育ってしまったのだろう。自分は本当に性格が悪いと思う。

「今年のクリスマスは中止にならないかな」とか「クリスマス?去年もやっただろ」とかそんなことばっかり言っていてはいけない。クリスマスを喜ぶ人が世界中に何億といるのだ。それでいいじゃない。
平和で、一年で多くの人が幸せになれる日。それだけで十分なのである。仮に企業による操作だとしてもこれは素敵なことだ。

 目が覚めて、プレゼントがないことに憤慨しているようではいけない。むしろ、誰かにプレゼントをあげられるような人にならなければ。
夜中のうちにサンタの格好をして、そーっと家庭に侵入し、近所の子供たちに何かプレゼントを配りに行こうか。
しかし、何を入れればいいのだろう。今我が家に子供がもらって喜びそうなものはない。お菓子すらない。甘いもの、といえば砂糖ぐらいしかない。
朝、目を覚ました子供たちが、靴下の中一杯になった白い粉を見たら、一体どう思うだろう。


うんこの森で美味しいコーヒーを
2009年の10月6日、ポンピドゥー芸術文化センターに行った。


ポンピドゥーの国立近代美術館はパリ三大美術館で、フォーヴィスムやキュビスム、そしてシュールレアリスム等が数多く展示されていて、今後の勉強の為にもここだけは絶対に行かねばならなかった。
しかし、パリに来て既に五日目。私は大変に疲弊していた。たまに見る邦人や日本語は本当に私を安心させて、自分は日本人なんだ、私は一人異国にいるが、あの日本がある同じ地球にいるのだ、というごく当たり前のことを馬鹿みたいに有り難く意識させてくれた。

朝早く起きて、北駅から一度バスティーユに向かった。バスティーユは何度も行ったから大体道が分かる。バスティーユからポンピドゥーまでは少しあったが、折角来て歩かなくては意味が無いので、ぶらぶらとrue st-antoineを西に向かった。
 


うんこの森で美味しいコーヒーを


ポンピドゥーに着いたのが大体10時くらいで、開くまでに一時間ほど時間があったので、周囲を散策してみる。ポンピドゥーの前の広場にある、白い通気口?のようなものの周辺は随分臭かった。

パリは大体何処に行っても尿の臭いがする。噂には聞いていたが、まさかここまでとは。パリはもう喫煙天国で、歩き煙草は勿論、ポイ捨てが普通である。だから、道は相当汚い。オペラ・ガルニエですらそうなのだ。

パリに比べれば新宿なんて相当綺麗な方で、もう地面を舐めて歩けるんじゃないかと云うほどで、それは少し云い過ぎでも、帰国後、新宿サブナードなど大して汚いとは思わなくなった。
 
 

周りを歩いていると、少し曲がったところにスターバックスがあった。スターバックスのメニューは世界中大体一緒で、少ししかフランス語を喋れない私でも何とか会話が通用する数少ない場なので、パリのスターバックスにはかなりお世話になった。
 

私はホットのmocha blancのトールサイズとペストリーを頼んだ。私はスターバックスなら世界中のクレジットカードが使えるのではないか、というのを滞在五日目にして気がついて、JCBのカードを使ってみた。

どうやら、店員はうまくレジにカードを通せなかったみたいで、言葉はうまく伝わらないわで困っていると、横で並んでいた英国紳士のようなイケメンが助けてくれた。フランス語でお礼を言うと、イケメンは気取ったところのないクールな笑顔を見知らぬ東洋人の私に見せてくれた。


イケメンはグランデのカプチーノを頼んでいた。さすがイケメン。その節は本当にありがとうございました。あなたがパリのスターバックスで助けた日本人は、私です。

 

スターバックスの店内で、本を読みながら時間を潰した。フランスで間違いなく日本語が恋しくなると思った私は文庫本を幾つか持っていった。そのとき持っていたのは内田百間の『冥途』で、私の愛読書の一つである。本を読みながらも、私はポンピドゥーにある美術品の数々を思い、また明日には日本に帰るということを考えていて、つまりは全く読書に集中できなかった。

ふと、ホワイトモカを飲んで、『冥途』を読んでいる自分が不思議に思えた。

これは日本でもできる事だ。新宿でも水道橋でも仙台でもできるのだ。それを、私はわざわざ遠いパリに足を運んで『冥途』を読んでいる。

この不思議さは、グローバリズムの弊害ではなく、グローバリズムのもたらす世界の並列化による帰結である。

一つの同じ場を共有しつつ、その実一歩外に出ればそこは仙台駅であり、はたまたサザンテラスであり、ルネミでもありそしてポンピドゥーでもあるのだ。

まるで、世界中に同じ箱が設置されていて、そこを行き来しているようである。これはネットにも同じことが云えて、同じ掲示板・サイトにアクセスしつつもそこにいる主体と云うのは現実の世界とつながっていて、個を持ち考える葦である。

我々は自然と個と云うものを自覚する。社会の中で個を自覚する。しかし、個と個は同じ場所で同じような動きをする。私は違う俺は違うぞと云いつつも、我々はある一方向に向かったりする。

これは一体どういうことなのだろうか。世界の広がりによって個を意識する力と個を喪失させ一定の流れに落ち着かせる力の双方が働いている。

ということはつまり、我々は個を意識しつつ緩やかな集団としての形成を望むのであって、ネットやスターバックスと云うのはそういった力の作用を表面化させる社会的な装置としての側面があるのかもしれない。

 

気付くと、時計は11時を回っていた。私は、容器をゴミ箱に入れて、お店を出てポンピドゥーに向かった。

夕飯にオムライスでも作って食べようかと思って、フライパンを熱してバターをじゅわじゅわいわせながらゆっくりと溶かした。

さぁ卵を入れてふわふわのオムを作ろうと、卵を割ってみると中から現れたのは生命以前の透明な卵白に包まれたまん丸の黄身ではなく、既にそこに一個の生命として存在している、ある意味でふわふわなかわいいヒヨコだった。

ヒヨコは可愛いくピヨピヨ鳴いているが、私は内心、既に溶かし始めたバターが焦げるのを恐れていて、まぁ、後でお外に逃がしてあげますからね、とヒヨコに優しく囁くと、次の卵を手にして今度こそはと勢いよく卵をあけてたみた。

しかし、中にはまたヒヨコ。私の台所では二匹のヒヨコが仲良く合唱を初めていて、いったいなんなのか、ヒヨコ界にしか分からないような不思議なハーモニーでピヨピヨ鳴いている。小躍りしながら鳴いている。

もうバターは黒く焦げ初めていて、泣きたいのは私の方なのに、一体なぜ。
そう思うと私はピヨピヨ鳴くこの二匹の哀れなヒヨコたちが急に厚かましい闖入者に見えてしまい、どうしよもない暴力の衝動に駆られて、ここに表れたヒヨコたちの運命を呪いながら、オムライスではなく鶏の竜田揚げを作ろうと決意した。


真っ赤に染まったヒヨコのふわふわした羽は、燃えるごみに入れて捨てた。燃えるごみで間違ってない思う。

最近、やたらと外国からメールが来る。私はこの日本以外に知り合いはいない。
じゃあなんでメールが来るのかというと、どうやら遠い異国の地から東京の新宿に住む私にどうしても買っていただきたい商品があって、しかもそれを今なら75%引きで売ってくれるという事で、なんて優しく良心的なんだろうか。
 

わざわざ遥か彼方からこの私に、私だけに向けてこの方はメールを打ってくれていて、しかも、それは大変ナイーヴな商品で、体の事を心配してくれている結果だと言わざるを得ない。

それはつまりは私のジョニー君を元気にさせる種類のものであるのだ。

 どうして何処かの謎の人物が、私の体の諸事情を知っているのだろうか。

確かに、最近は日によって少し元気が時があるかもしれない。ジョニー、ジョニーと、優しく呼びかけてもまるで耳を貸さず、それどころか変に自分を見失って、落ち込んで殻の中に閉じこもってしまう。その事を、なぜ知っているのだろう。流石、謎の人物である。

どこか遠い所から衛星なんかを使って、私の事を見ていてくれたのだろうか。彼はNASAの人間かもしれない。NASAの人間がわざわざ私のジョニーを気遣ってくれている。
 

もしや、NASAで目下進行中の極秘プランで、若者のジョニーを元気にさせるべく、様々な通信機器などを用いて私生活を少しばかり覗いているのかもしれない。そのテストケースとして私が今回選ばれたという事だ。

なんてマニアックな性癖を持つ団体なのだろう。さすがNASA。世界の元気はジョニーから、である。
 

NASAの人間は大変などエロなので、近々NASAに行く用事のある人は、その怪しい視線に注意すべきである。

最近、夜中まともに寝る事が出来ない。朝早く学校に行って帰りに飲んだくれても、バイトでフルタイムで働いた後でも、夜中になると急に脳が覚醒してしまって、体の疲れなど関係なしに全く寝つく事が出来ない。


これが、やる事があって徹夜しなければならないという状況ならまだ良くて、寝たいし寝なければいけないというのに、しかも寝る事ができる状況にも関わらず寝れないというのは、辛い。
 も

う数週間この状態が続いていて、正直心身ともに少し参ってきている。何か良い方法はないものか。

 もちろんこれじゃあいけないと、なんとか脳を働かせてみたり、体を無駄に動かしている。毎晩ベッドの中で五時間近くもただ我慢し続けるのは堪えかねるからだ。

 そんなわけで、最近大体四時か五時くらいには家の周りをプラプラすることが多くなった。
しかし、体調は最悪なので、本当に体をプラプラさせながら歩いている。こんな事を続けていると、まるで自分が夜な夜な街に繰り出すゾンビになったような気分になる。
 

私に自らのゾンビ化を他者に蔓延させるような能力があったら、間違いなく会う人会う人の首元に噛み付くだろう。後ろからそーっと近づいて、ガブリ、ガブリ、である。人知れず新宿の街は少しずつゾンビが増えていく。増えすぎたゾンビの恐怖を政府は感じ取り、いつしかゾンビ掃討作戦が開始されるかもしれない。病原菌は私である。狙うなら私だけにして下さい。悪いのは全て私です。

 今夜も、ゾンビ菌保持者がヒタヒタと夜の新宿を彷徨い歩く。新宿に住む人間は皆、くれぐれも注意すべきである。