ヒロシマ ナガサキ 『アメリカ』 | そら、空 HARI MAN

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今から40年くらい前、高校の英語の授業でだったか「ディベート」というものを知って驚きました。

 

アメリカには「 ディベート Debate 」というものがあって、勝ち負けを競うという。

 

Aを正しいと主張する者とBが正しいと主張する者に分かれ、討論しながら第三者を自分たちの主張に導いていくという。

驚くことはAが正しいと主張していた人が勝ったとしても、次にAが正しいと主張していた同じその人がBが正しいと主張討論する立場に替わると、第三者からBが正しいとされたりする…。

Debateは弁論・討論の技術を磨くためのものなのでしょうが、当時田舎の高校生の私は驚いた。

「正しいことは正しい」のに、主張誘導する者の技術によって「正しいことが変わる」のかと。

 

Debateは特定の方向へ誘導し勝ち負けを競い、discussionは意見を出し合い統合の途を見つけるのでしょうか。

 

『アメリカ』(≠アメリカ国民)は「Discussion」をDebateの中に狡猾に取り込み、「詭弁」で世界をある特定の方向に仕向けている氣がしてなりません。

(※本来のDebateは異なる意見、見解、観方、論の展開を学ぶことだと思っています)

上手く言えないのですが、

僕はどこかで「正しい」「正解」に頼ることは危ういもので、「依存」のように感じています。
いのちのここちをすっ飛ばした、「大脳依存」な感じがしてしまうのです。
WHOLEではない。

 

 

原爆の碑に「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」とあります。

広島を訪問しその言葉をみた小野田元少尉は「これは原爆を落としたアメリカ人が書いたのか」と仰ったと言います。

そして、日本人だと聞いて驚いたと。

 

「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」。

僕もこの言葉に、小野田さんと同じ驚きと憤りと原爆で殺された数十万人の人達への申し訳ないやり切れない気持ちがあります。
(日本人も戦争加害者であったことは忘れてはいけないと思いますが)
 

同時に、Debate(競い合い)の世界を遥かに超越した、WHOLEな、宇宙的な「和」を感じている縄文のような『日本人』の遺伝子も感じます。

 











原爆 拍手 十字を切る

 



 

 

 

~昨年の記事より~


コロナ共騒(狂騒)の前年、令和元年9月にヒロシマ、ナガサキを訪れました。

 



 

 

20代の夏、自転車で東京から福岡の実家まで帰りました。

その時、広島の原爆資料館まで行ったのですがその時はなぜだか、中には入りませんでした。

ただその時に、「いずれまた自転車か歩いてここを訪れますから」と心の中で言ったのを覚えています。

あれから30年経ちました。

ふと、「広島と長崎の原爆資料館を巡ろう」と思いました。

自転車や歩いていくことは能わずですが、先延ばしせず「今行こう」と。

相方さんに快くお見送りしてもらいました。感謝。

わずか一週間ですが、資料館の開館時間中、毎日一日中そこを見て歩きました。

 

令和という新しい時代になって、たとえわずかであろうと、ぐずぐずせずしっかりと「昭和」や「原爆」を観なきゃと思ったのかもしれません。

これからの新しい出発のために。

 

「日本」「アメリカ」「○○国」という枠を超えて、人間。人類。

不自然な「枠」を超えた生身の死に様生き様が語られています。

人間の残酷悲惨、人間の強さやさしさ。

 

原爆資料館や平和記念公園にたくさんの外国人、修学旅行生、若い人たちが訪れてくれているのがうれしくありました。

世界中のたくさんの人に、ヒロシマ、ナガサキの資料館を訪れていただきたいです。

自戒を込めて言います。「知らない」ということは残酷や悲惨、傲慢にもつながります。

 

戦争被害者、戦争加害者、その子孫である私たち、みんなにとって大切なもの、忘れてはいけないものがそこにありました。



ヒロシマ、ナガサキの両資料館とも光あふれる平和公園の中にあり、水と緑がふんだんにあります。

この光、水、緑、歩く人の風景に救われる思いでした。

 

 




 

AIで色付けされた8月6日投下直後のキノコ雲

 

 

 

 

 

 

原爆の子像 碑文

 

当時の広島市の人口35万人。原爆により1945年8月6日から年末までに14万人が死にました。

 

 

 

左の建物が現在の原爆ドーム。

 

原爆投下から二か月後頃。投下直後の写真は、爆心地周辺は全壊滅のため、ほとんど撮られていません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

爆心地では熱線のため一瞬にして生きている人間が炭化したそうです。内臓の水分まで一瞬にして。何が起こったのかもわからないままたくさんの人が死んだ。

 

 

 

路面電車。立ったまま炭化した姿も。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

原爆の子像

 

 

 

「原爆の子」像のモデルとなった、白血病で入院していた12歳の女の子が折った鶴。銀色の鶴はレントゲン写真の包装紙、赤は薬の包み紙で、あとは飴を包んでいたものなど。
初めの1000羽は、元気になって家に帰れますように。つぎの1000羽は家族の幸せのため。

 

 

指が動かなくなってきても折り続けていたそうです。針を使って。爪先ほどの小さな鶴。

 

 

 

 

 

 

この橋を目標に原爆が落とされました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ーナガサキー

 

浦上天主堂周辺。東洋一を誇っていた教会堂は破壊されました。終戦後進駐したアメリカ軍はモニュメントとして遺されることを恐れて、すぐに建物の残骸を撤去するように命じたそうです。

 


現・浦上天主堂。「被爆のマリア」像が祭壇に祀られています。

 

 

現在立っている、爆心地を示す碑。この上空500メートルで爆発。

8月9日。その日B29飛行機は第一目標の小倉に向かったが悪天候視界不良、第二目標の長崎へ投下。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「のどがかわいてたまりませんでした。水にはあぶらのようなものが一面に浮いていました。どうしても水が欲しくて、とうとうあぶらのういたままのみました。」

熱線で体を焼かれ、内臓の水分まで蒸発させられた生きている人たちはみんな「水」を求めたと。

広島も長崎も平和公園には、「水」がふんだんに供えられています。

 

 

 

正面奥にはすべての原爆死没者名が載った名簿が安置されています。
当時の長崎市の人口が25万人。1945年8月9日から年末までに7万人が死んでいます。

 

爆心地公園に移築されてある浦上天主堂の遺構。

 

 

長崎市中心地。当初はこの辺りに原爆投下の予定だったそうです。しかし、小倉と同じように長崎も曇り空で視界不良、そのままB29の基地帰還が検討されていたそのとき雲の隙間があり、投下。2kmほど北東の浦上寄りの町に。

 

 

平和の像。はじめこの胸板の熱い筋骨隆々の姿が好きになれませんでした。「力」の象徴のようで。

しかし、近づいて顔を見て見ると、観音様のような眼でした。

 

 

ーヒロシマー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『 ピカドン 』 7分のアニメ 1945.8.6 ヒロシマの朝