以前の記事で、よく「訳(わけ)の外」という言葉(表現)を遣いました。
また、「埒(らち・囲い柵)をあける」とも。
✧過去記事『訳の外で』
「訳」も「埒」も、『この世・世間』・・・私たちが意味を求め、判断し、その枠内に収まろう・止まろうとするもの、三次元のもの・・・の『枠』の中です。
そこでは、私たちの「そのまんま」は解き放たれないと想います。
「そのままの私たち・存在」は、
三次元的・今の社会的な制約の中に収まりきれるものではないと想います。
「人間の可能性」とは、「そのままの人間」とは、「人間の存在」とは 広大無限な可能性がひろがっている「存在」だと想うのです。
「人」が何かをしよう、「こう在ろう」とするとき、それは「制約」を受けます。
DOINGには常に 意味・価値・判断の手垢がつきます。
と、想うのです。
実は、宇宙にはBEINGしかなく、そこにそれに適ったHAPPENINGが起こっているだけ。
なんてことも想います。
静寂の瞬間、「訳」「埒」=「個」はほどけ、本来の自身の姿を現します。
心身の澄み切った、ほんとうの瞬間です。
心身を超えた、ほんとうの瞬間です。