フッサールの「判断中止」「括弧保留」、マンハイムの知識社会学「普遍的イデオロギー論」を基調とした立場から歴史的論争における思考形態の研究をすると、次のようになる。
禁欲主義と快楽主義
自由意志論と決定論
大陸合理論とイギリス経験論(性悪説と性善説)
実在論と唯名論(普遍論争)
禁欲主義と快楽主義について言えば、明らかに禁欲と名付けられた行動には快楽よりも禁欲を選択したという無意識な快楽欲が働いたという立場になる。そもそも漠然とした命名された「快楽」にたいして「禁欲」していると命名されているが、その双方に働いている同一の欲望が考えられておらず、その違いが生じる要因を禁欲するという抑制力に固定されてしまっているのだ。それはカントの実践理性論に続くフロイト精神論にも影響を与えた思考形態と言える。
一方パスカルの「誰も彼もが名誉ばかりを求めている。こうしてそれを説明している私自身も」という論述は自身を含めた普遍的イデオロギー論の立場にあり、自然の斉一性(社会的斉一化とは違う)を前提とした見解である。もし禁欲主義ならばパスカルにならい「誰も彼もが快楽ばかりを追い求めている。そして私も禁欲という快楽を追い求めている」と言って欲しいものだ。それを言わないと言うことは「君たちには快楽を抑制する意志が足りない」を示したいといった快楽を求めているのだ。むしろ抑制にいたるところの考慮している未来予想図について語り、その未来予想図を考慮していない快楽を避けるところの快楽を示す必要があるのだ。
自由意志論と決定論については一概にどっちとは言い難い。がしかし、起きたこと、つまり現在までの出来事には理由なり必然性があるという決定論の立場となる。たとえば今現在、5秒後の行動を選択しうる自由があるとしよう。しかし「5秒後の行動を選択しうる」と言う考えを抱いている今現在の出来事は自由意志の結果ではなく無意識なる必然性の結果と思えるのだ。そして5秒後に起きた出来事も無意識なる必然性の結果で、その際「実際はこうなったのだが、5秒前は他の可能性があったのだ」と思えたら、そう思ったという出来事の必然的結果が確認できるだけなのだ。そう未来の決定論までは言えないが、現在までの必然性についてしか語れないということで、自由意志について現在の意志が語るならば、ただ自由意志論を語ってしまったという出来事の必然性が前面に現れるという構造になっていることになるわけなのだ。もし自由意志論で批判しようとする者があるならば、前もって説明しておこう。ここでの論述では自由意志の是非が論理思考上で排除されているのは織り込み済みなのは自覚されており、自由意志論による批判が現れるのであるならば、その批判が現れた自身の現実過程をわきまえた上で示せ!ということと、自由意志論が抱かれている社会的現実を隠すための論点ずらしではないか?の回答を述べよ!である。
大陸合理論とイギリス経験論についてはイギリス経験論の立場から形成論的思考に注目し、性悪説と性善説の対立に話を移したい。何がより真実であるかという合理論的な議論も大事だと思うが、それよりも現に人々の抱いている考えあるいは卓越した考えを抱いあていると見なされた人々の思考について吟味する新たな必要性があり、人々の知識形成を踏まえた性悪説と性善説の対立から論述する。
結論から言ってホッブスの性悪説よりはルソーの性善説、あるいは古代中国の荀子の性悪説よりは孟子の性善説の立場に立つことになる。ホッブスの「人間にとって人間は狼である」(ホッブス自身は性悪説として言明していない)は自然的な利己心の社会的状況を示しているが、それは自然的な後天的形成結果であり先天的性質はそこからは導き出せないのだ。荀子の場合はあからさまで、孟子の性善説を批判するのにあたって「放っておけば悪事を働く」と放任という後天的形成結果が入り込んだものから性悪説を唱えてしまっている。確かに孟子の徳治論の楽天性を批判したい気持ちはわからなくはないが、そこから性悪説を唱えるのは後天的形成の現実と新たな教育可能性の領域を排除した法治支配の思想統制の常套句なのだ。むしろ性善説はこの世は悪まみれであり、その悪まみれとなる個々人の知識形成の現実を探求し続けなければならない限りなき必要性を示唆するもので、ある意味ルソーの「人間の本性は生まれながらにして善であるが、社会の発展とともに堕落していく」と等しいが、正しくは「人間の本性は生まれながらにして善であり、それがわかるまでは悪が形成されるように神は世界を創造した」もしくは「悪か形成される現実をわからない間は、人間の本性が善なのがはわからない」となる。
さて断っておくが、快楽主義、決定論、性善説が現実に正しいと言っているわけではありません。それぞれの対立状況から今まで充分に吟味されていない思考状況について示したのである。どれだけ歴史的論争において思考の盲点が放置されて来たかを吟味し、そこからそれぞれの思考形態が明るみにしながら、さらに自分自身が用いようとしている思考形態も自覚しうる状態になっていくって感じであろう。
(4つ目の普遍論争については省く)