調べによると、1998年11月の五木寛之『他力』で宇多田ヒカル『Automatic』は同年12月であったようだ。
なるほど1998年の流行語には赤瀬川原平の『老人力』もあり、二十一世紀に入ってからも続々と『~力』という著書が連発させるほどの影響力を及ぼした年だったとわかり、一方宇多田ヒカルのデビュー作ではギリシャ語系「自動 automatic」が用いられていたわけである。(ちなみに小室哲哉は昨年、自身の流行を終わらせたのは宇多田ヒカルだったというような見解を示したらしい)
そもそも五木寛之の『他力』には鎌倉時代の分宗における「自力」と「他力」の対立軸が暗示されているのであり、古くは中国の曇鸞に由来する対立軸(かつ漢字による対立軸である)に基づいたものなのである。一方ギリシャ語系のオートマチックを漢字に訳せば「自動」であり、説明的な「力」と描写的な「動」の違いを感じさせたのであった。
おそらく今まで自力で頑張って来たと思っていた人々にたいして、五木寛之は「他力」のテーマ(自と他の対比)を提示し、一方の宇多田ヒカルは新世代の立場からか「自動」をテーマ(力と動の対比)としたのである。(あるいは90年代前半には広まっていた「自然・あるがまま」と対比された「自動」であった)
いやはやこう考えてみると、あの1999年の『だんご3兄弟』は、まるで「自分が一番」と自力本願に追い込まれた次男が一つのテーマとなって、組織的な三兄弟の役割分担の自動化が歌われたかのように思えてしまうのである。
ところで英語の主格Iと目的格meでは共通性がなく、日本語のような粒子的「私」に主格「~は」や目的格「~を」を表す助詞の付加にありません。おおよそ「自力」は自動詞I do、「他力」は他動詞 do me を意味するのだが、しかし英語自身は intransitive(自動詞)と transitive(他動詞)のようにラテン語系「移行,通過」の意味で解しているのである。また主格subject(「主観」と関係あり)や目的格object(「客観」と関係あり)にしてもラテン語系が用いられている英語なのだ。(automaticがギリシャ語系である点と対比できる)
I Me Mine(1970)
全く何を言いたいのかよくわからなくなって来たが、要するに「他力」が強調されることによって付随的に「自力,他力」の対立軸へと関心が限定される仕組みにあるのであり、それを回避しようとしたギリシャ語系「automatic」でさえもラテン語「sub-,ob-」の対立軸までは届いていなかったといった感じなのである。(ラテン語系「自動詞in-transitive」は移行transitiveの捨象in-を意味する)
It's Automagic
(t>g ペルシャ化変換?)